教師の体罰事件を生む「子どものしつけ」の欠如…親が子を叱らないツケが教師に回る
じつは、2011年までは小学校の発生件数は高校よりはるかに少なかったのである。2012年から小学校での発生件数が増え始め、ついに2013年に高校を抜き、2015年から年々さらに急増中で今や高校の3倍以上となっているのである。
暴力にかぎらず、近頃の子どもたちの衝動コントロール力の欠如は無視できないところまで来ている。小一プロブレムなどといって、幼稚園から小学校への移行で躓く子どもが多いことが問題になっている。
授業中に席を立って歩いたり、教室の外に出たり、授業中に騒いだり、暴れたり、注意する先生に暴力を振るったり、暴言を吐いたりする。
まさにしつけの欠如によって社会性が注入されないのである。
先生たちを追い詰める世間やメディア
教育現場では体罰は禁じられている。だから教師の体罰は許されない。もちろんそうなのだが、メディアの報道に偏りがないだろうか。
子どもたちに社会性が注入されないことの理由のひとつに、先生の責任を追及するばかりで生徒の責任を問わないメディアの報道姿勢の問題があると常々感じている。
たとえば、数年前に起きた次のような体罰事件に関しても、私は報道姿勢の問題を感じたものだった。
ある高校の教師が校外学習の集合時間に遅れた生徒96人を都庁前で正座させたことが判明し、その教師は「遅刻はいけないことだと指導するためだった」と説明したが、正座は体罰に当たるため、高校側は保護者会で謝罪し、教育委員会はこの教師の処分を検討しているというものだ(2015年7月11日付産経ニュース)。他のメディアも似たような内容の報道だった。
たとえ正座が体罰に当たるとしても、この報道には抜け落ちている視点があるのが気になった。それは、96人もの生徒が遅刻するというような事態をなぜ問題視しないのかということだ。
実態がわからないため、報道の範囲内で考察するしかないのだが、ふつうに考えれば、そんなに大勢の生徒が遅刻したのに、その異常な事態が問題視されずに、正座をさせた教師ばかりが謝罪させられ、処分までされるとしたら、生徒たちの規範意識はどんどん薄れていくに違いない。
学校がこのような教育的視点の欠如した批判の目にさらされるとしたら、教師たちは今後どんな態度で生徒たちに接していけばよいのだろうか。こうした報道のあり方は、義務を果たさなくても権利は行使できると教えることにならないだろうか。
当時、私はそのような見解を著書の中で記したのだが、体罰事件の報道に接するたびに感じるのは、先生がそのような行動に出た背景に何があったのかに関する視点が欠落しているということだ。そこに目を向け、改善の方向を模索しない限り、いくら体罰を禁じても、教育現場がまともに機能することは期待できない。
実際、学生たちに訊いても、バイト先の店長に遅刻を叱られ、逆ギレして辞めた友だちがいるという声が多く寄せられた。中学や高校で遅刻をしても叱られなかったため、遅刻がそんなに悪いことだと思ってないのだろうといった意見もみられた。
「ほめて育てる」「叱らない子育て」が世の中に広まることで、子どもたちは規則違反をしても義務を怠っても、厳しく叱られることがなくなった。子どもというのはまだまだ未熟なものだし、どうしても安易なほうに流されやすい。そこで、厳しく叱られることがなければ、規則違反や怠慢が横行することになる。
事なかれ主義の先生は、これも時流だと諦めるかもしれないが、使命感をもって教育に当たっている先生は、見過ごすことができず、つい生徒と衝突してしまう。そんな構図があるのではないだろうか。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)