iPad、望まざる大幅値上げのワケと、再度の値下げはないと見るインフレ経済学的根拠
インフレで原材料費や仕入れ値が上がっても、メニュー、つまり価格表を書き換えるのにはコストがかかる。だから企業はなるべく価格表を変えずに我慢をして、どうしても我慢ができなくなったら一気に価格表を書き換える行動をとる。
もちろん、メニューを書き換えるコストは業種によっていろいろと違う。スーパーマーケットでは文字通り生鮮食料品の値札は毎日のように変わるから、メニューコストは業務の中身として織り込み済みだ。
一方で価格表がブランドイメージと結びついている場合は、簡単に価格表を変えたくない。メニューを書き換えるだけではなく、価格変更にはもっとたくさんのコストがかかる場合がある。
わかりやすい例が100円マック。ワンコインでハンバーガーやコーヒーが買えるということを、これまで何年もかけてテレビコマーシャルで浸透させてきた。円安で原材料の仕入れ値が上がったからといっても、なかなか100円という価格表は変えにくい。
自動販売機の缶コーヒーも同じ。もう20年も120円という価格が定着している。途中で消費税が上がったり、デフレで商品価値が下がったりいろいろあったけれど、結局一貫して自動販売機の缶コーヒーの価格は120円のまま。
そしてたぶん、これからインフレになって、しかも来年消費税が増税されても、自動販売機の缶コーヒーは120円から変わらないんじゃないかと思う。なぜかというと、これがメニューコストというもので、消費者に一旦浸透させたメニューを変えることは、消費行動を変えてしまうリスクを伴うからだ。
●マーケティング上、価値のある価格メニュー
そして今回のアップルの行動も、基本はこのメニューコストを意識した行動になっている。
つまり本当であれば値上げなどしたくなかった。できれば次のモデルが登場したときに、
「新しいモデルはこれこれの新性能を踏まえて、価格はこうです」
とやりたかったに違いない。それがあまりに急激に為替が動いてしまったので、そうも言ってはいられなくなった。特にアップル製品の場合、もともと日本の価格が1ドル=80円時代でも相対的にアメリカや香港よりも割安だったので、円安ドル高になったら、日本でiPadを購入してアメリカのeBayみたいなオークションサイトで売ると、たくさん儲かるようになってしまった。
だから本当は変えたくなかったメニューを、えいやと一回大きく値上げする決断になったわけだ。
そしてメニューコストを考えると、現在再び円高に向かっているとはいっても、再値下げはやりたくない。
なぜなら今回のメニュー変更で、アメリカで16GBから128GBまで順に、499ドル、599ドル、699ドル、799ドルで売られている商品を、日本円でも4万9800円、5万9800円、6万9800円、7万9800円と非常に美しい数列のメニューに置き換わることができた。
それまでのメニュー(4万2800円、5万800円、5万8800円、6万6800円)が美しくなかったのと比べて、今のメニューの美しさはそれ自体、マーケティング上の資産価値がある。
だから、よほど再び円高に振れてそれが長期定着する気配がない限り、またメニューコストをかけて価格を変更しようなどというインセンティブは、アップルには働きにくいものなのだ。
ちなみにインフレの3つ目のコストは計算単位コストといって、インフレによって貨幣という価値尺度の信頼が薄まることをいう。
「昨日まで5万8800円だったiPadが、今日は6万9800円かよ」
と消費者が嘆くことで、経済的意思決定の質が低下するという社会損失が起きるといわれている。
つまりインフレ政策が招いた今回のアップルの値上げを見て、「なんか、買おうと思っていたけど、買う気がなくなっちゃったな」と感じる消費者がたくさん出てくるということも、経済学的には予想された出来事なのだ。
このようにアップルの値上げというニュースひとつについても、経済学ではすでに解明がなされている。だからこれから先が不安だと感じる方は、一度、経済学の教科書のインフレーションのページを復習してみることを、ぜひお勧めしたい。
(文=鈴木貴博/百年コンサルティング代表取締役)●鈴木貴博(すずき・たかひろ)
事業戦略コンサルタント。百年コンサルティング代表取締役。1986年、ボストンコンサルティンググループ入社。持ち前の分析力と洞察力を武器に、企業間の複雑な競争原理を解明する専門家として13年にわたり活躍。伝説のコンサルタントと呼ばれる。ネットイヤーグループ(東証マザーズ上場)の起業に参画後、03年に独立し、百年コンサルティングを創業。以来、最も創造的でかつ「がつん!」とインパクトのある事業戦略作りができるアドバイザーとして大企業からの注文が途絶えたことがない。主な著書に『NARUTOはなぜ中忍になれないのか』『「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱』(ともに朝日新聞出版)、『戦略思考トレーニング』(日本経済新聞出版社)、『カーライル 世界最大級プライベート・エクイティ投資会社の日本戦略』(ダイヤモンド社)などがある。