また、安倍晋三首相は在任中の憲法改正を目指しているともいわれており、今後国民的な議論が起こる可能性も高い。だが、そもそも現行憲法はデタラメだと指摘するのが、憲政史研究家で5月に『帝国憲法物語』(PHP研究所)を上梓した倉山満氏である。今回は倉山氏に、
・日本国憲法の出生の秘密
・なぜ現行憲法はデタラメなのか
・見直されるべき帝国憲法
などについて聞いた。
集団的自衛権の行使は官僚の論理の問題
–本書では、国際法の常識では外国軍に基地を提供することは集団的自衛権の行使である、と指摘されていますが、内閣法制局は「行使ではない」と表明しています。
倉山満氏(以下、倉山) まず、大前提として理解しておかなくてはいけないのは、国連憲章51条にも明記されていますが、そこに書いてあろうがなかろうが、すべての国家は当然のこととして個別的だろうが集団的だろうが自衛権を保有し行使できることになっているということです。そして、現に日本国憲法の下でも、これまで集団的自衛権が行使されてきた「実績」があります。国際法では、外国の軍隊に基地を提供することは集団的自衛権の行使とみなされるのです。しかも、その基地から、例えばベトナム戦争の時のように、実際に軍隊が出撃しています。これが、集団的自衛権の行使でなくてなんでしょう。
それが、あたかも「日本国憲法下では、集団的自衛権は行使できない」かのごとくいわれるようになったのは、1972年、田中角栄内閣で内閣法制局が「集団的自衛権は保持できるが、行使しない」と判断したからです。もともと日本国憲法の下でも行使されている集団的自衛権を、ただある種の政策判断として「行使しないことにする」と述べただけです。そう述べただけで米軍基地をなくしたわけでもないので、実態はまったく変わっていないのに、です。
しかし、今の内閣法制局からすれば、集団的自衛権を行使していることを認めたら、前任者の批判になってしまいます。霞ヶ関の論理は前任者を批判しないことなので、認めるはずがありません。単なる官僚の論理で、憲法問題でもなんでもない。
だから、政治判断で「集団的自衛権も行使していた、もともとのかたちに戻ります」という。それだけの話です。内閣法制局が、「本来行使できる権利」を「行使できない」としただけなのですから、情勢の変化によって「行使できる」と判断するのなら、まったく問題ありませんし、「憲法解釈の論理的一貫性」などと言い募る必要もありません。現実の政策として必要なことをやればいいのです。むしろ、事情が変わっているのに論理が一貫したら、おかしな話になります。
ところが、安倍内閣は一内閣の勝手な解釈で、「行使できないもの」を「行使できる」ように変えるかのような説明を繰り返しています。現在、政府が行っている説明では、私でも反対です。下手に憲法解釈の一貫性や整合性を主張するから、政策論議ができなくなってしまったのです。
そもそも、日本国憲法自体がデタラメなのですから、そんな代物に合わせて論理的整合性など求めるから、しどろもどろになるのです。
『帝国憲法物語』 西洋列強の脅威から日本を守るために、たった一人で三千人の敵に立ち向かった高杉晋作。強固な意志を貫きつつ「万機公論」を本気で実行しようとした大久保利通。早くから憲法こそが国家の廃興存亡を決すると見抜いていた木戸孝允。そして彼らの意志を継いで真に日本の歴史に立脚した憲法を制定すべく苦闘を重ねた伊藤博文と井上毅―幕末明治の日本人たちが上下一心となって勝ち取った大日本帝国憲法こそ、我が国の自主独立を守るための「最強の武器」だった。だが、しかし―。今、すべての日本人が知っておくべき歴史の真実。