小田原の北条氏を滅ぼした秀吉は、家康を温暖で陸海交通の要衝である東海道から、北条氏のいなくなった関東に移した。そこには、「100年にわたり北条氏が統治していた関東を治められる武将は、家康しかいない」という秀吉の判断もあっただろう。
しかし、家康にしてみれば関東は未知の領国であり、統治に失敗すれば、秀吉からどんな仕打ちを受けるかわからない。そんな中、家康は何ひとつ不平を言わず、黙々と領国経営に当たって力を蓄えた。
秀吉の逝去後、関ヶ原の戦いに勝利して将軍に就任した家康は、たった2年で将軍職を秀忠に譲ると、関東から再び駿府に移り、そこを根拠地として秀忠を補佐する大御所政治を始めた。
この時、家康はかつての駿府城を大改築した。
幻の巨大天守閣構想
修築工事は、慶長12(1607)年に開始され、半年後には天守の土台である天守台が完成している。驚くのは、その天守台の大きさだ。
天守台は南北55メートル×東西48メートルという日本城郭史上最大の大きさを誇っていた。
これは、どのくらいの大きさなのだろうか。当時、存在していた豊臣家の居城である大坂城(「大坂<おおざか>」、現在は「大阪」)の天守台は、25メートル×23メートルの規模であった。駿府城の底面積はその4倍以上であり、同様に名古屋城や江戸城と比較しても2倍はあった。
当然、家康はその天守台の上に日本最大の天守閣を築くつもりだった。巨大天守閣の大きさをもって、徳川家の絶大な力を天下に、そして何より大阪の豊臣家に見せつけようとしたのである。
仮に実現していれば、計算上では、1階部分が南北55メートル、東西48メートルの規模を持つ7層9階の超巨大天守閣が建つことになる。
しかし、実際に完成した天守閣は、最下層が25メートル×21メートルという、当初の想定よりかなり小ぶりなものになってしまった。これでは天守台に大きな隙間ができてしまうため、四隅に二重櫓を建て、それを多聞櫓で結び、天守台の中心部に天守を建てるかたちになったと推測されている。
なぜ、そういった状況になってしまったのだろうか。はじめから、小ぶりな天守閣を築くのであれば、天守台もそれに見合った大きさにすればよかったはずである。
放火と窃盗が相次いだ駿府城
家康の業績を中心に記されている記録書『当代記』を見ると、駿府城は9回の放火に遭ったことが記されている。
完成間近だった天守閣を焼いた火事は、慶長13(1608)年12月22日、丑の刻(午前1~3時)に発生した。大奥の局の物置で使用していた手燭の火が襖や壁紙に引火、火は本丸全体に広がり、御殿や天守を焼き尽くしたと伝えられる。
この時、家康は早めの床についていたが、そばで寝ずの番を務めていた竹腰小伝次らに抱えられてなんとか脱出し、庭で火を避けたという。家康は城の後門から城外に脱出したため、大手門は閉じられ、城から逃げ遅れて焼け死ぬ者も多かったようだ。事実、「こちゃ」という女官は、門に殺到した人々に踏みつぶされて命を失っている。
また、その年は10月にも台所の梁の上から出火し、二の丸まで飛び火して家屋や長蔵など50メートルほどが焼けてしまった。
さらに、翌年の6月には本丸に火をつけられ、下手人とされた下女2人が火あぶりにされ、女官2人が遠島に処せられている。
放火のほかに、金品や金目の茶器が盗まれる事件もその年の3月に起きており、やはり女官が責めを負われて殺害されている。こうした窃盗事件は、その前後にもあったという。
盗みの目的は単に金品だけだったのか、あるいは機密文書のようなものまで含まれていたのかはわからない。ただ、犯人とされた人物がある程度の身分の女性であったことは確かである。
身分のある女性が、単なる金品目当てで窃盗などをしただろうか。その行動には、不自然な点が多い。
いずれにしても、家康の居城であった駿府城では、この慶長14(1609)年当時、放火や窃盗事件が頻繁に発生していたことは間違いない。
背景には家康暗殺計画があった?
当時の記録には、誰がなんの目的で放火や窃盗をしたのか、明確には記されていない。ただ、何者かが執拗に家康のもとに女間者や忍びの者を送り込み、放火や盗みを行わせていた可能性は高い。特に放火は、家康の命を狙ったものと考えられる。
何度も城に間者を送り込み、家康の命を狙うだけの動機と組織力を持った存在となると、一番に浮かんでくるのは、やはり豊臣家だ。
また、家康はこの頃、キリシタンに対する弾圧を強化しているが、当時のキリシタンの数は数十万人といわれ、豊臣家に仕える女官や家康の侍女にもキリシタンが少なくなかった。
そうした背景から、キリシタンが女官となって駿府城へ潜入し、放火を繰り返して家康の命を狙ったという可能性も否定はできない。
こうして、駿府城は9回の火災に遭い、城はその都度再建を余儀なくされた。その影響もあり、当初予定していた巨大天守閣構想は縮小せざるを得なかったものと思われる。
度重なる火事に、家康はついに「鉛御殿」という屋根を鉛で葺いた建物までつくったという。現在のシェルターのようなものと思われるが、たびたびの火事は家康によほどの恐怖を与えたのだろう。
最終的に築かれた駿府城の天守閣は、寛永12(1635)年11月、城下茶町の火災により全焼、その後再建されることはなかった。
後に残った巨大天守台も、明治30(1897)年に大日本帝国陸軍歩兵第34連隊が城内に置かれたことから、兵営の敷地拡大のために本丸の石垣と共に壊されて姿を消した。
現在、駿府城では天守閣を再建する計画が進んでいる。在りし日の巨大な天守台が蘇る日も近いのではないだろうか。
(文=三池純正/歴史研究家)