中山道が東西を結ぶ重要なルートだったことは、特に江戸前期の北関東を見ると理解が早い。
徳川家康が関東に移封(国替え)されて最初に着手したのは、関東各地に信頼する武将たちを配することだった。彼らは、任された土地を治める領主であり、江戸に本拠を置く徳川家の「藩屏」(防護のための垣根)としての武力(特に防衛能力)も期待された。
上野国(現在の群馬県)南部に位置する館林を最初に任されたのは、「徳川四天王」の1人として名高い榊原康政だった。
康政は家康の側近としても働いており、武人として突出した評価はないものの、家康から厚い信頼を寄せられた。文武両道で「主君一筋」「徳川家第一」という、家康にとっては最も頼れる忠臣である。
織田信長と家康が連合して、朝倉義景・浅井長政軍と激突した姉川の戦いで、康政は勝利を引き寄せる活躍を見せ、小牧・長久手の戦いでは、敵の大将である豊臣秀吉を罵倒しつつ、自陣営の大義名分を訴えた檄文を発して、秀吉を激怒させた。
それは、秀吉が「康政を捕らえたら、褒美は望み通り!」という破格の条件を用意したといわれるほどで、和平後に秀吉は康政の忠義心と文才を褒めたたえている。
そんな康政を館林に配したのは、家康が当地を「北方・西方への備え」と認識したからだ。館林は江戸から北上した場所にあり、当時は東京湾に注いでいた利根川を使えば、往来も便利だった。
館林は、関東の支配者だった古河公方の本拠地にも近い。加えて、陸路でも水路でも西に進めば、同じく要衝とされていた厩橋(現在の前橋)があり、さらに西に進めば中山道に出る。
館林から上野国を北西に進むと、山間を越えて越後国(現在の新潟県)や会津地方(現在の福島県)に到達する。北東に進めば、下野国(現在の栃木県)の日光を越えて、陸奥(現在の東北地方)との国境だった白河に着く。
つまり、館林は北関東きっての交通結節点だったわけだ。裏を返せば、江戸を守る最終防衛ラインということである。
譜代の家柄が領主を務めてきた館林
そんな館林を、周囲から一目置かれ、家康が信頼する康政が治めるとなれば、おいそれと手出しはできない。また、康政は内政にも非凡な才能を見せており、家康が選んだのもうなずける。
館林は、家康をはじめとした歴代の徳川将軍が重要視していた要衝である。それは、歴代の領主を見ると、納得することができる。
榊原家の後に館林を領したのは、子孫から老中を輩出する大給(おぎゅう)松平家だ。次いで、5代将軍に就任する前の徳川綱吉が藩主となり、以降も越智松平家や太田家に井上家、秋元家といった、徳川家の親類筋もしくは幕府から厚く信頼されていた譜代の家柄が領主に選ばれている。
余談だが、越智松平家も後に老中を輩出している。そして、藩主が任命されていない期間は、甲斐と同じく幕府の直轄領とされた。
なお、康政の時代には、早くも日光への街道整備がスタートしている。これについては別の機会に書きたいが、日光と江戸や京都を結ぶ街道整備は、幕府にとって喫緊の課題であったからだ。
中山道だけでなく、館林には越後からの三国街道のほか、さまざまな主要幹線が集中している。有事の際には、各方面に軍勢を派遣する最前線基地にもなるということだ。これは、北関東の現在の高速道路網や一般の幹線道路網などを見ると理解しやすい。
それらの事情と、江戸時代(特に前期)に東西を結ぶ幹線として中山道が選ばれていたことを重ね合わせると、館林がいかに重要な場所だったのかが見えてくる。「四天王」の1人が初代領主に選ばれたのも、納得がいくというわけだ。
(文=熊谷充晃/歴史探究家)