織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が戦った1575年の「長篠の戦い」は、信長の巧みな鉄砲活用だけが注目されているが、はたしてそうだったのだろうか。
諸説あるが、兵力は連合軍の3万に対して、武田軍は半分の1万5000だったといわれている。明らかに劣勢な勝頼は、なぜ「勝てる」と考えて決戦に挑んだのだろうか。そこには、信長の卓越した「勝利の兵法」があった。
まず、鉄砲だが、通説では信長が準備したのは3000挺といわれている。しかし、実際は1000挺ほどである。それでも強力な武力には違いないが、信長は弾と火薬を込める時間を有効活用するために、3班に分けて撃たせている。
三段撃ちは、この時が初めてではなく、以前から信長が活用していた戦法だ。ただ、信長は鉄砲だけを頼りにしていたわけではない。合戦時に雨が降っていたら、当時の火縄銃は使えなくなるからである。
武田軍の2倍の兵力を用意したのも、鉄砲が使えない事態になることを考え、白兵戦による攻防に備えたからである。
また、前線に馬防柵(ばぼうさく)といわれる柵をめぐらせたのは、屈強な武田軍の騎馬隊の進撃を防ぐためだ。さらに、馬防柵の内側に鉄砲隊を配置すれば、その威力は増す。そのため、信長は「馬防柵から出て戦うな」と指示していたほどである。
では、この合戦を勝頼側から見てみよう。
江戸時代に書かれた『甲陽軍鑑』には、武田軍の重臣たちは「撤兵すべし」と進言したが、勝頼は「臆病者」と罵ったため、重臣たちは死を覚悟して決戦に臨み、水杯(みずさかずき:今生の別れの儀式)を交わした、という話がある。しかし、これは武田軍の敗北という結果からつくり上げられた物語である。
勝頼はもちろん、重臣たちも、「この合戦は勝てる」と判断していたのである。もし、戦う前から負けると考えていたら、部将や兵卒が戦線から離脱し、士気は著しく低下していたはずだ。
しかし、武田軍にはそんな様子はまったく見られず、堂々と連合軍に相対している。そこには、「信長と家康は、武田軍を恐れて臆している」という判断があった。
というのは、勝頼の父である武田信玄は、かつて三方ヶ原の戦いで、信長と家康の連合軍を一蹴していたからである。そのため、「恐れるに足りず」というのが、勝頼をはじめとした武田軍の共通認識であった。
武田軍が「勝てる」と思ったのには、もうひとつ理由があった。それは、連合軍の兵力を自軍よりはるかに少ないと見ていたからである。実際は、自軍の2倍であったにもかかわらず、「1万以下だろう」と判断したのだ。
信長の策略にはまった勝頼
これは、信長が周到に仕掛けた罠にはまったためだ。信長は連吾川沿いに約3キロにわたって馬防柵を設けたが、そこに配置された兵力は6000ほどであった。残りの兵力は、後方の極楽寺山や御堂山、さらには家康が本陣を置いた高松山に潜ませていたのである。『信長公記』では、この信長の策略が以下のように書かれている。
「設楽の郷は、一段地方くぼき所に候、敵がたへ見えざる様に、段々に人数三万ばかり立て置かる」
設楽の里は、地形が窪地になって低いために、敵からは見えない。そのため、山稜と窪地の間に段々になるように兵力を隠していたということだ。
しかし、武田軍が確認したのは馬防柵にいた兵力だけである。そこで、約2キロにわたって1万5000の兵力を展開して対陣した。
「馬防柵まで、武田軍を引きつける」
この信長の策略に勝頼がはまったことが、長篠の合戦の明暗を分けたのだ。
信長は、この罠をさらに確実なものにするために、もうひとつ策略を用いている。武田軍の布陣を確認すると、家康の重臣の酒井忠次に4000の兵を与えて、「山中を迂回して、武田軍の後方を攪乱せよ」と命じた。武田軍が、馬防柵に突入せざるを得ないように仕掛けたのである。
そして、夜明けと共に武田軍の攻撃が開始された。それに先立ち、信長は後方の極楽寺山から、家康のいる最前線の高松山に移っている。この時、秘匿されていた部隊も馬防柵に配置された。夜が明けてみると、馬防柵の内部は2万5000の兵力にあふれていたのだ。
この時、天候も信長に味方した。雨が降らず、鉄砲の威力が発揮されたのである。武田軍の諸隊は、三重に構築された馬防柵にたどり着いたときには、鉄砲の餌食になっていた。
午前6時から午後2時までの8時間、武田軍は19回にわたって突撃を繰り返したが、ことごとく失敗した。馬場信春以下、主だった部将20名の戦死者を出して、敗退したのである。
勝頼にとっては、敗北したばかりか、重臣の半数を失ったことが致命傷になった。勝頼は、命からがら甲斐国に逃げ戻ったものの、家臣団が崩壊したため、軍を立て直すことはできなかった。
信長の「勝利の兵法」は、敵が得意とする戦術などを分析して、それを封じる手段を事前に講じたことにある。しかも、敵を抜き差しならない状況に追い込み、敗北に導いた点が秀逸だ。これこそ、「勝利の方程式」といえるものだろう。
(文=武田鏡村/作家、日本歴史宗教研究所所長)