これらの多士済々なメンバーが、まさに「『漢』と書いて『オトコ』と読む」世界を繰り広げる新選組は、波乱に満ちたグループとして有名だ。
その新選組を厳しく統制していたのは、鉄の戒律ともいうべき「局中法度」だ。
入隊した以上は厳守が義務付けられた、新選組の憲法のようなもので、5カ条から成る。なかでも、第1条に掲げられた「士道に背くまじきこと」は有名だ。仲間を裏切ったり、法度に背けば、容赦ない制裁が待っている――。新選組には、そういったイメージも強い。
しかし、局中法度そのものが、どうやら眉唾もののようだ。
激動の時代、儚い生涯を駆け抜けたといえる新選組には、明文化された規則は存在しなかった。実際に、そういった規則の存在を裏付ける史料は発見されていない。
明治時代の終わり頃には、新選組の生き残りであった永倉新八が貴重な証言をしている。北海道の地方紙が永倉の所在を突き止め、インタビュー記事を掲載したのだ。
記事に掲載された永倉の証言には、局中法度という名前そのものが出てこない。また、永倉は「禁令」という表現をしているが、「4カ条の禁令」となっており、前述した5カ条よりひとつ少ない。さらに、「状況に即応できるように、内容が改められていた」と証言している。
「裏切り者は成敗」もウソ?
時はたち、時代は昭和に入る。
新選組をテーマに小説の執筆を考えていた、ある新聞記者がいた。後に数多くの傑作歴史小説を世に出す、子母澤寛(しもざわかん)だ。彼は1928年の『新選組始末記』(万里閣書房)を皮切りに「新選組三部作」を発表するが、そこに書かれていたのが、5カ条から成る局中法度だった。
どうやら、子母澤が物語を盛り上げるために、局中法度に「私闘を許さず」という新たな文言を盛り込んだようだ。つまり、「5カ条の局中法度」は、フィクションの可能性が高いということである。
仮にそうだとしても、子母澤はあくまで「小説」を書いたのだから、創作することになんの問題もない。永倉の証言を参考にはしていると思うが、それをベースにドキュメンタリーを書こうとしたわけではないのだ。
これを、後進の人気歴史小説家、例えば司馬遼太郎や池波正太郎といった面々が、次々と作中に拝借した。子母澤の「創作」が、いかにドラマチックな展開に不可欠な要素だったのかがわかる。そして、後進による力作もベストセラーとなり、局中法度の名称と共に「私闘~」を含めた5カ条が、さも事実であるかのように世の中に広まっていったのだ。
また、「脱隊は決して許すまじ」「裏切り者は成敗する」といった、新選組を特徴づけるストイックなイメージも、事実と違っていたようだ。
新選組が内ゲバともいえる粛清劇を披露したのは、芹沢鴨や伊東甲子太郎一派を相手にした時ぐらいである。何も「地の果てまで追いかける」といったこともなかったようで、脱隊後も生をまっとうした人間も、少なからず存在している。
それも当然で、局中法度が空想の産物なのであれば、それを規範に実施されたといわれるドラマチックな出来事も、その真偽は危ういものだ。
フィクションが事実のように扱われ、世間的に定着してしまうことは、よくある。絶大な人気を誇る新選組にも、そういった側面があるということだ。
(文=熊谷充晃/歴史探究家)