江戸時代初期、その上野の山に3代将軍・徳川家光の肝いりで創建されたのが、「東叡山 寛永寺」である。読んで字のごとく、京都鎮護を担う比叡山の延暦寺に対し、江戸鎮護を担う霊場として創建されている。そのため、「東の比叡山」のような意味合いで「東叡山」の山号が付けられた。
江戸城本丸から見て、上野の山は「鬼門」の方角に当たることから、「寛永寺は、江戸に入り込もうとする邪気や怨霊を封じるために建てられた」という説もある。しかし、結果的に鬼門を封印する立地になっただけで、寛永寺が上野に建てられた理由は、もっと単純なものだった。
寛永寺に求められた役回りは、将軍家の鎮護である。つまり、徳川家を守護する場所ということだ。そのため、江戸城から近いほうが望ましい。さらに、祖先を崇拝する意味もあるので、祖父の徳川家康を絶対的な存在として崇めていた家光が創建に尽力したこともうなずける。
寛永寺は、祈願の目的で創建された祈祷寺という扱いで、亡骸を葬る墓所や菩提寺とは趣を異にする(後に菩提寺も兼ねる)。しかし、将軍権力を確固たるものにするために重要な寺院といえた。
寛永寺の創建者は、南光坊天海だ。驚異的な長寿を誇り、晩年の家康のブレーンを務めた“怪僧”として有名な人物である。その天海が、家光に「上野に将軍家を守護する寺を建ててはどうか」と具申したのだが、これは当然の流れだった。
当時、上野の山一帯は、その多大な功績への褒賞として、天海が幕府から授けられていた土地だったからだ。つまり、「大恩ある将軍家のために、将軍家から賜った自分の土地を提供しますよ」ということだ。
とはいえ、寺院が建立されれば住職になるのは自分なので、完全なボランティアというわけではない。それどころか、将軍家を守護する寺院の住職という、名誉あるポジションが得られるわけだ。
もちろん、江戸城本丸から見て鬼門に位置することも、重要なポイントだったことは想像に難くない。しかし、天海がラッキーだったのは、そんな好条件の場所に自分の領地を授かっていたことだろう。
寛永寺の格式が高くなったワケ
たまたま鬼門の方角に自分の土地があり、そこに天海の宗派である天台宗の寺を建てるとなれば、大義名分も立てやすく、理に適っている。先に寺院を建立して、後から将軍家との縁をつなぐことも可能だったはずだ。
天海は、当時の幕府の宗教政策をほぼ一手に担っていた。すべてが私利私欲のためではないが、天台宗、さらに天台宗から派生して自らつくり上げた「山王一実神道」の隆盛を狙って動いていたという面も、否定できない。
事実、天海は天台宗の総本山である延暦寺や、宗派のトップである座主と同等の権威を、寛永寺や自身と縁が深い埼玉県川越市の喜多院に付与する努力もしていた。天海は最終的に、天台宗から関東天台宗を独立させ、さらに関東天台宗が天台宗の上に立つという序列をつくり出すことに成功する。
天海の死後、家康の亡骸が祀られる「日光東照宮(創建当時は東照社)」の再造営が終了、寛永寺は東照宮と並び「宮」としての格式を得るようになる。
その後、寛永寺の住職は皇族が就く格式高いポジションとなった。3代目を務めたのは、血縁こそないものの、家光の甥にあたる守澄法親王(しゅちょうほっしんのう)だ。そして、皇族が住職を務める寺院の格式が低くては体裁が保てないため、寛永寺には新たに「輪王寺宮」という宮号が朝廷より授けられた。
守澄法親王はすでに日光山門主であり、この人事が、やがて日光輪王寺の門跡が天台宗の座主を兼任する仕組みを生むことになる。「皇族である守澄法親王=輪王寺宮が東下して寛永寺に住む以上、比叡山より東叡山の格式を上位にするほうが理に適っている」という幕府側の説明に、朝廷が抵抗しきれなくなっていたためだ。
寛永寺の歴史には、こういった側面もあるのである。
(文=熊谷充晃/歴史探究家)