そこには、戦後に否定された歴史を掘り起こしたいと願う八幡氏と、八幡氏よりも戦後教育・リベラル寄りに通史(特に古代史)を描いた百田氏という対立がある。八幡氏は『日本国紀』が、さらに普遍的価値を持つにはどうしたいいのかを考えた上で、「『日本国紀』というタイトルをつけるのなら、『日本書紀』の記述を信じて万世一系を認めるべき」と主張したのである。
だからこそ、百田氏と八幡氏が同じ土俵で本格的に論戦すれば、日本史を考える上で、かなりおもしろい論点が浮かび上がるはずだ。特に、戦後の歴史教育の影響や成果をどこまで認めたらいいかについて語ってもらえると興味深い。
百田氏が『日本国紀』で成し遂げたのは、日本人が日本に誇りを持てる日本史を書き上げたことだ。そこには良くも悪くも百田氏一流の“独善性”がある。その独善性が読む者を百田ワールドに引き込む魅力の源泉であり、読む者おのおのがその世界に浸った上で、日本という国を成立させる本質をつかみとるきっかけを与えてくれる。
ただそれでも、そこには『日本書紀』をフィクションと切り捨て、万世一系を否定した戦後歴史観が根強く残っている。それだけではなく、アカデミズムとは一線を画す歴史小説家の司馬遼太郎氏や、歴史を推理小説のように読み解く井沢元彦氏などの作家の影響も色濃い。ともすれば、そういった要因は、日本を愛そうとする保守的な歴史観の土台に、いらぬ不安定さを与えるかもしれない。それを是とするか非とするかは、日本史を考える上では重要だろう。
だが、残念なことに、百田氏の立場から八幡本の内容に対する反論が出てきていない。上のツイートのように「便乗商法だ」「表紙がパクりだ」などの枝葉末節の批判ばかりである。
八幡本の表紙と百田本の表紙を見比べると、まったく似ていないとはいわないが、「パクり」はさすがに言い過ぎである。私から見ると、「両者が関係していることがわかるくらいのデザイン的な処理がしてある」くらいのレベルだ。また、便乗商法とは言うが、ある本を批評する本は宿命的に「便乗商法」であり、批評本を便乗商法とけなすことはトートロジーにすぎない。
そういった周辺事項をいくら指摘したところで、八幡氏の提示した論点にはなんの影響もない。いわんや、自民党の勉強会で八幡氏の本が配られ、それを一国会議員が画像でアップしたくらいで、あたかも全否定されたがごとく容姿にまで言及して批判するのは明らかにやりすぎである。
百田氏も八幡氏も、そしてもちろん杉田議員も、我が国にとって重要な方たちである。なれ合う必要などはないが、ぜひ議論は建設的にやっていただきたい。寄って立つべき「愛すべき国家」という土台は共通しているのだから、小異にこだわるのは国益を考えても得策ではない。
(文=茂田譲二/ジャーナリスト)