控訴審で求められることは
供述心理学という学問がある。供述を細かく分析し、その表現や変遷ぶりなどから、供述者の心理状態や供述内容の信憑性などを検証していく。本件のように、被告人が否認から自白へ、さらにまた否認へと転じており、その過程で第三者の関与を語るなど、常人では理解しにくい変遷をしている供述者の言動を正しく判断するには、そうした専門家の知見を活用し、この被告人の取り調べ映像を見る時の注意点を、裁判員らに情報として提供することも考えるべきだろう。
また、今回法廷で再生された映像の中には、「黙秘権を使いたい」と求めた勝又被告に対し、検察官が「このずるい様子を被害者や遺族に見せてやりたい」などと威圧的な態度で追及する場面も映っていた。これに裁判員は違和感を覚えなかったのだろうか。
元検事の市川寛弁護士はツイッターで、「被疑者取調が適正だったか否かを、録画から事後的に判断する際も、無罪推定原則を徹底すべし。『犯人に対してなら、この程度の厳しい言葉もやむを得ない』ではなく『無実かもしれない人に、こんな厳しい言葉を浴びせていいのか』という視点」が必要だと述べている。裁判員にこうした視点を提供するのも、裁判長の役割だろう。果たして本件ではどうだったのだろうか。
第3に、映像を見た印象や直感だけで自白の信用性を判断してしまうのでなく、自白に客観的で緻密な分析がなされたかどうか、という問題がある。
東京高裁裁判長などを務めた木谷明弁護士は、本件判決では自白を客観的・分析的に検討していないと指摘。「自白の中に被害者の行動に関する供述がほとんどないのは、足利事件とまったく同じだ。過去の経験に学んでいない、古色蒼然たる判決だ」などと述べて、本件判決を酷評している。
的を射た判決批判だろうが、こうした些細な分析を裁判員に期待するのは、いささか無理というものだろう。となれば、裁判長がこれまでの経験や過去の教訓を踏まえて自白を分析し、裁判員に判断材料として提供するなど、より丁寧な検討のための工夫が必要になってくる。
もっとも、それをやり過ぎると、裁判長の判断を裁判員に押し付けてしまうことになりかねない。そうなれば裁判員裁判の意議が薄れてしまうので、難しいところだ。この点は、裁判員裁判の限界といえるかもしれない。
木谷弁護士が指摘するような、自白についての本格的な分析は、控訴審での職業裁判官に委ねざるを得ないだろう。本件は、被告側が控訴する。高裁には、自白の任意性・信用性を子細に分析すると共に、これだけ客観的な証拠が希薄な事件を自白に依拠して有罪認定することの是非についても検討してもらいたい。供述心理学の専門家に取り調べ映像を分析してもらうなど、手間暇を惜しまない丁寧な審理を期待したい。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)