一方、薛錦波は逮捕された翌日、警察の拷問が原因で死亡し、村民の抵抗運動はさらに激しくなった。村民は当局の暴力と兵糧攻めに対抗すべく、インターネットのSNS・微博を駆使し、村内で起きていることを映像も交えて逐一発信。さらに、香港や外国のメディア関係者を当局の封鎖の網をかいくぐって村に引き入れ、事実を報道させた。
こうした作戦実行の主力は、90后(1990年代生まれ)の若者たちであり、当時中国各地で起きていた若者の労働争議や環境汚染反対運動などの社会運動の潮流とあわせて、「90后の反乱」とも呼ばれた。
事態の悪化が周辺の農村に波及することを恐れた当時の広東省党委書記の汪洋(現・副首相)は、側近で当時副書記だった朱明国を現地に派遣、臨時代表理事会顧問の林祖恋と直接交渉を経て、陸豊市の頭越しに、臨時代表理事会を正式の組織と認める発表を行った。
こうして12年1月15日、陸豊市党委員会は臨時代表理事会顧問の林祖恋を正式に村民代表兼党支部書記に選出し、旧来の烏坎村党支部は解散させられた。このとき、新書記に任命された林祖恋は同年3月、村民委員会選挙で村長に選出された。この事件によって、その後烏坎村は主に海外から「草の根民主の村」と呼ばれるようになった。
再び弾圧
だが、この「民主の村」が今年6月以降、再び弾圧されはじめる。まず、村長の林祖恋が6月17日深夜、いきなり汚職で逮捕された。冤罪だとみられている。林祖恋は11年の烏坎事件の原因ともなった土地強制収容問題の解決を求めて、上層機関に陳情にいくことを同月19日の村民大会で謀り、同月21日にも陳情を実行する心積もりだった。逮捕はこの陳情行動を妨害することが目的だとされる。
村民は19日以降、村長釈放要求デモを繰り返し、村に進駐していた重装備の警官隊と対峙。だが上級機関の汕尾市政府の取り調べに、林祖恋は自分の罪を自白した。「法律知識が浅いために、建設プロジェクトの管理職務にあることを利用して、民生建設プロジェクトの発注の便宜を図るために巨額のキックバックを受け取ってしまいました」と述べたのだ。この自白の様子をビデオ撮影したものは当局に公開され、起訴、裁判を待たないで有罪印象を決定づけた。林祖恋の孫が人質として拘束されたため、嘘の自白をせざるを得なかったということが、のちに明らかとなった。