天皇陛下のお気持ちと内閣の思惑
ほかにも、そうした事跡は多く見いだされる。特に戦乱に明け暮れた戦国時代の後奈良天皇(在位1536~1557)は、朝廷財政が底をつくなか自らの宸筆(天皇の書)を売るなどして、できるだけ天皇祭祀の遂行に支障のないように取りはからった。その一方で、戦乱や疫病で苦しむ民のため「般若心経」を写経して諸国の寺院に納め、伊勢神宮への宣命にも飢饉や疫病、戦乱からの復興と民政の安寧を祈願することたびたびに及んだという。ちなみに、後奈良天皇は今上天皇が記者会見で例話として取り上げたこともある。
加えて、豊臣秀吉の聚楽第に招かれたことで知られる後陽成天皇(在位1586~1611)も、民の安寧を祈念して、秀吉が強行する朝鮮出兵に際して異を唱えた。
つまり、歴史的に見て天皇とは、「祈りをささげ続けるための存在」で、時代に合わせて変化をし続けてきたといえるのだ。
そもそも天皇が終身制になったのも、明治期の大日本帝国憲法発布に合わせ、皇室典範が定められてからにすぎない。それも見方を変えれば、「近代国家」形成のための政治的抑制だったともいえる。
八柏氏は、天皇が終身制となったわけを次のように解説する。
「この問題は、一般に『高輪会議』といわれる会議で議論されています。内閣総理大臣の伊藤博文は、当時のヨーロッパの皇帝をモデルに天皇の制度をつくるべきだと主張します。そして国家意識の高揚のため天皇を国家統合の支柱にする。そこで、その地位を不動のものにする意味で、終身制を主張します。それに対して、法制官僚で宮内省図書頭(ずしょのかみ)の井上毅(こわし)は、『生前退位』を認める立場でしたが、結局、国家統合の支柱としての天皇の役割を必要とした明治国家は、天皇の終身制を決め、これが現在まで続くというわけです」
続けて、天皇陛下のお気持ちと内閣の思惑のずれを指摘する。
「いま東北では、今上天皇と皇后への尊崇が極めて強い。なぜなら、東日本大震災以後に被災地に度重なる慰問をし、あれだけ心を寄せてくれる存在はいらっしゃらない。中央の政治家は誰もが軽く、心から亡くなった人々、そして生き残ってしまった人々の慚愧の思いに立ち止まってくれない」
天皇陛下、さらに日本の過去や未来を考え直すいい機会かもしれない。
(文=椎名民生)