山手線の駅には駅名と区名が異なる駅がある。品川駅は港区にあるし、目黒駅は品川区にあるのだ。
おかげで品川駅が江戸時代の東海道の最初の宿場の品川かと誤解されるが、東海道の品川宿は、歩行新宿(かちしんしゅく)、北品川宿、南品川宿からなり、JRの品川駅ではなく京浜急行の北品川駅から新馬場にかけてあった。今でも旧東海道沿いに商店街があり、ある程度賑わっているし、古本屋に入ると東海道についての本が多く揃っている。
古くて大きい宿場町であるから、江戸時代以来遊郭は多かった。幕末には90軒あまりの遊郭があったという。だが明治になると公娼制度が廃止され、遊郭が禁止されて、貸座敷と呼ばれるようになった。明治10年代には歩行新宿に21軒、北品川宿に16軒、南品川宿に17軒、合計で54軒の貸座敷があったというから幕末からだいぶ減少していた。貸座敷とは、事実上は女性を買う場所である。明治37年には品川の貸座敷、引手茶屋(客の手引きをして貸座敷に案内する)、娼妓からなる組合は「三業組合」と改称した。
さて、関東大震災(1923年)によって吉原が焼けてしまうと、品川宿の遊郭が大発展することになった。品川も多少被害はあったが倒壊や火災はなかったからだ。震災直後は、被害者の惨状を顧みて、営業を自粛していたが、吉原などの都心の花街が焼けたことで、かえって世情不安となり、犯罪が増えることが予想されたので、警察は品川遊郭に一刻も早く営業の再開を求めたというのだ。
悲しいことに現在も震災の被災地では性犯罪が起こるという。被災した女性が夜トイレなどに行こうとすると、男性に襲われるというのである。かつ、被害を訴えようとすると犯人の男性も同じ被災者なんだから可哀想だから我慢しろと言われた女性もいるというから驚きだ。まして100年近い昔、被災した女性を襲う男性がたくさんいたとしてもおかしくない。だから貸座敷を再開してむしろ犯罪を抑止しようとしたのであろう。
実際、震災後の品川に客が殺到する様はすさまじかったという。数カ月は連夜満員客止めだった。1922年までは年間33万人だった客数が24年には53万人に増えたというのだ。娼妓数は1918年から28年までずっと4000人ほどであるから、女性たちの忙しさだけが増えたことになる。
最も有名な貸座敷は島崎楼で、裏には船で遊びに乗り付ける客船用の桟橋があった。相模楼というのも間口の広い大きな貸座敷だった。北の端にある八ッ山端の停車場の宿場の入口の角には「富貴軒」というレストランがあった。いかにも文明開化期らしい2階建ての洋館で、そばが15銭の時代に夜の定食が5円したというからかなり高級だった。
富貴軒の斜向かいには、浦島、田中屋、熊東という料理屋が並んでいた。田中屋の前には大相撲の場所が始まると勝負の結果を告げる、力士の名前が黒字で書かれた速報板が立てられた。負けた力士は板を裏返すと、名前が赤い字で書かれていた。なんだか江戸時代のような風景だ。
しかし、客数は増えたが客単価は減少した。1923年には4円85銭だったのが震災後は3円54銭になったのだ。さらに1929年の恐慌後は2円台に低下したという。これは経済状況のためでもあるが、客筋の階層の変化にもよる。江戸時代の遊郭の客の主流は大名屋敷の武士だったし、19世紀までは富裕層だったが、20世紀になると中流階級が主流になったからである。
ただし人口を見ると、震災までは東海道沿いに人口が集中していたのに、震災後は西側の郊外部で人口が増えた。1920年から30年で品川宿あたりの人口は微増か減少であったが、大井町は90%増、上大崎(目黒駅付近)は35%増、さらに戸越方面は約9倍、中延方面は25倍、小山は40倍という激増ぶりであった。
明らかに人口重心が海側から山の手側に移動した。そして海側は次第に工業地帯となっていき、宿場町時代の風情は失われていったのである。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)