95年4月に2日間行われた「平和のための平壌国際体育・文化祝典」は、同時期に発生した地下鉄サリン事件などの陰に隠れ、国内報道では惜しくも注目度がいま一つだった。だが、会場を埋め尽くした延べ38万人の北朝鮮の人民たちは、悪役レスラーや女子プロレスラーの熱闘ぶりに驚愕し、惜しみない歓声と拍手を送った。
「あの日、会場にいる人々の心が一つになった気がしました。北朝鮮の人も初めてプロレスを目の当たりにしてびっくりしただろうけど、我々もその反応の大きさにびっくりした。まず拍手の大きさが違った。普段はパンパン、という程度の拍手だけど、本当に感情がむき出しになったときには、立ち上がって身を乗り出し、割れんばかりの拍手が起きるんだ」と当時を振り返り、猪木氏はそう語る。
猪木氏が闘った相手は、アメリカのプロレス団体・NWAの元チャンピオン、リック・フレアー。北朝鮮国内のテレビ視聴率は99%ともいわれ、猪木氏の名は人民の誰もが知るところとなった。ある政府高官曰く「一夜にして反日感情がなくなった」とも。
以降の20年間、約30回にも及ぶ北朝鮮訪問の原点ともなった猪木氏のプロレス興行。北朝鮮のエンターテインメント土壌に火をつけたともいわれるが、同国のエンタメ事情は、今どのような変化を遂げているのか。
「数万人規模の一糸乱れぬマスゲームのさなか、テコンドー選手や子どもたちが一斉に宙返りする様などは何度観ても圧巻です。徹底して統制された表現の仕方、規模の大きさ、その凄さは、我々にとっても勉強になる。彼らは世界の芸術を非常に熱心に勉強し、研究してもいる。
ただ、逆に成熟したエンタメの面白さというのは、脱線することだとも思うんです。緩急をつけたり、波をつくったり。そこの部分までは、まだ北朝鮮は到達していない。自由な表現方法を模索しているのではないか」(猪木氏)
●エンタメの意識が高まりつつある北朝鮮
猪木氏は何度も訪朝する中で、20年前に比べ、人民の意識はずいぶん変わってきていることを実感しているという。
政府公認の自由市場が多数開設され、庶民たちの“草の根経済”レベルでの市場経済化が進んでいる現在の北朝鮮。人々の商売に対する意欲は旺盛で、それを刺激しているのが、中国などから流入するさまざまな商品だ。
最近では、日用品や電子製品、自動車まであらゆる品目が中国から北朝鮮に輸入されているが、いまだに厳しく統制されているのが韓流ドラマのDVDなど、エンタメ商品。ヤミでの流入が続いているものの、当局の目から隠れて、こっそり楽しむしかないのが現状だ。