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被疑者が警察官から誘導的な取り調べを受けていることを検察官が見抜くのは容易ではないから、特段の事情がない限り適法な取り調べを受けていると信頼するのは不合理ではない、と判決は言う。
しかし、警察の捜査をチェックする視点を持たず、単に警察を信頼して警察調書を引き写すだけでよいというなら、検察官による取り調べなど要らないのではないか。なんのために刑事裁判では検察官の調書が警察官調書より信頼できるものと扱われるのか、裁判所はもっと考えてみるべきだ。
現場に残された足跡痕から靴の種類は特定されたが、そのサイズは28センチで24.5センチの柳原さんとは合わないだけでなく、柳原さんは同種の靴を持っていなかった。これだけでも、検察は警察にDNA検査を指示するなど、柳原さんが本当に犯人なのか慎重に吟味する必要があっただろう。
警察は、柳原さん宅の捜索でも靴がみつからなかったことから、靴は柳原さんが処分したと断定した。柳原さんは捜査員に誘導され、「捨てた」と認める調書に応じたが、警察がその場所を捜索しても出てこなかった。すると、捜査員から「燃やしたんだろ」と言われて「はい」と答え、自宅で燃やしたとする調書に変わった。このように、警察官調書に不自然な変遷があるのに、検察官は自白に疑問を持たなかった。
それにもかかわらず、検察官の判断は「客観的に合理的根拠に欠けることが明らかであるとはいえない」とした。これは、検察に甘すぎる。
冤罪は、国家権力を使って生まれる被害だ。警察や検察の権力行使や裁判所の判断に問題があれば、被害者を積極的に救済するようにしていくべきではないか。
5月には、鹿児島県警が選挙違反事件をでっち上げ、13人が冤罪に巻き込まれた志布志事件での国賠裁判の判決が出る。警察に違法な捜査があったことはすでに明らかだが、検察官の責任について鹿児島地裁がどのような判断をするのか、注目したい。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)
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