奨学金滞納・給食費未納・就職失敗の人の「自己責任」を問うのは、間違っているのか
思考停止
責任を個人ではなく、社会や制度に求め、誰かに守ってもらおうという風潮は、人々を思考停止に追いやります。なぜなら、「こういうリスクが潜んでいるかも」「そのリスクを回避する方法は何か」などと考えなくていいからです。そうした価値観の持ち主が多いことや、そんな圧力がかかりやすい社会的環境も、世界を変えるような起業家がなかなか登場しない理由のひとつではないでしょうか。
もちろん、「そんな起業家を輩出する国になることよりも、自分の生活が大事」という感情も当然だと思います。
私もアメリカ礼賛というわけではなく、ひずみや問題も数多くあることを知っています。
たとえば、社会保障制度はまだまだ未整備で、保険に未加入のため医者にかかれない人はたくさんいます。家を持てず車の中で生活する人も少なくありません。銃で武装し自分を守らなければならないというのも、自己責任の究極かもしれません(全米ライフル協会の圧力という声もありますが)。
それに、すべての責任を個人に押し付けることを支持するわけでもありません。たとえば、地震や台風は個人の判断と選択とは関係ありませんし、テロなども個人の判断と選択とは関係なく起きる。
しかし、頑丈な家を建てておくとか保険に加入することで、ある程度は自然災害の被害を低減できるでしょうし、「人が大勢集まる場所に行くのを避ける」ことでテロに遭う確率を下げることもできる。つまり、考えれば何かできることはある。
しかし、給食を食べるだけ食べて給食費を払わない、奨学金を使うだけ使って返済しない、果ては本人の就業状況や懐事情まで、「自己責任」ではなく「誰か別の、社会や制度といった曖昧なもの」に責任を転嫁するような精神性では、「何事かを成す」人材にはなれないでしょう。
繰り返しになりますが、そこには「自分で知恵と工夫を働かせてなんとかする」という姿勢ではなく、「自分で考えるのは面倒くさい、人より努力するのも面倒くさい、でも現状に不満。でも悪いのは自分じゃない。だから誰かなんとかしてよ!」という依存の発想では、弱い立場のままです。
一方で、前述したアメリカの起業家たちは、自分の状況が良くないのは社会のせいだなどと不平不満を言ったりしないでしょう。そんなヒマがあれば「どうすれば解決できるか」を考え試行錯誤してきたから、今の彼らがあるわけです。
人生のリスクすら極小化
そういえばビル・ゲイツ氏やザッカーバーグ氏の母校であるハーバード大学(といっても2人とも中退ですが)のミッションにも、「異なる考え方と表現の自由を尊重し、新たな発見と批判的思考に喜びを見いだすこと。協力してことにあたるにあたりリーダーシップを発揮すること。自らの行為に責任をとること。生涯にわたって知識を広げ、社会に貢献すること」とあります(The Mission of Harvard Collegeより抄訳)。世界最高峰の大学の一つハーバード大に入学するにも、「自らの行為に責任をとる」人が求められるわけです。
つまり、弱者から抜け出し自由や成功を手に入れるには、「すべてが自己責任」と捉えて行動することです。
進学するかどうかは自己責任、就職できる・できないも自己責任、収入が多い・少ないも自己責任、リストラに遭う・遭わないも自己責任、成功する・しないももちろん自己責任。
そう考えれば、自分がやるべきことを自分で考えますし、未来を予測し、さまざまなリスクに対しても自ら備えようとします。
たとえば自分のスキルや職業に対しても「将来こうなりそうだから、今から準備しておこう」と考えます。あるいは、「安い料理を出す店には安い理由があり、それは健康リスクにつながるから行くのは控えよう」とか、「転んでケガをしないように、駆け込み乗車はやめよう」といった判断にもつながります。
それは仕事やお金の面に限らず、人生のリスクすら極小化できるのではないでしょうか。
(文=午堂登紀雄/米国公認会計士、エデュビジョン代表取締役)