一人で自分を育ててくれた母親が突然死んだ。
父親の記憶は4歳の頃から消えている。生活は困窮を極め、小学校の修学旅行にも行かなかった。中学生になっても、決して目立つこともせず、愛だの恋だのと騒ぐクラスメートをしり目に、ひっそりとやり過ごした。
高校生になると、すぐに引きこもりになった。そして、あの日がやってきた。7月初旬、家でゲームをしていると、電話が鳴った。
「お母さんが職場で倒れて、救急搬送されました」
それから、人生は大きく転落していくのだった。
『泥の中で咲け』(松谷美善著、幻冬舎刊)は、「坂本曜」という一人の男の転落と再生を描いた小説である。
この物語の見方は、「曜」という人物をどう捉えるかで大きく変わってくる。
未成年だった曜は、脳死状態になった母親の身元引受人になることができず、叔父や、離婚して出て行ったまま行方不明だった父親に連絡をするも、冷淡な態度を取られてしまう。
結局は父親が支払いや書類への押印などの事務手続きを行ってくれたが、その父は母親の火葬場で「今日から一人で生きていけ。もう一切、俺に頼るな」と請求書を曜に押しつけたのである。
天涯孤独となった曜に待ち受ける前途は多難だ。高校を中退し、寮のあるリフォーム会社で働きだすが、次々と従業員がいなくなっていき、曜もわずか3ヶ月あまりでクビを宣告される。
どうにかして次の職場を見つけなければいけない曜は、藁にもすがる思いで寮の部屋の押し入れの中にあったメモに書かれていた電話番号に連絡をする。しかし、連れていかれた古い木造住宅で、危険ドラッグの人体実験の現場を目撃するのだった。
多感な時期に絶望を経験した曜は、社会に適応できずに職を転々とし、ついには犯罪に手を染めるようになる。誰かの寂しさや弱みにつけ込んで、お金を巻き上げる――「騙される側」だった少年は成長し、「騙す側」にまわるようになっていた。
曜はその後、逮捕されるのだが、そこからまた物語は動いていく。それは「再生」のストーリーだ。
ここまでのあらすじを見れば、「孤独な少年」「社会に適合できず詐欺を働いた犯罪者」といった曜の顔が見えてくる。しかし、曜のその後の人生を動かしていくのは、壮絶な人生の中で出会った人々との中で形成された新たな一面である。
本作は、著者の松谷美善氏が「人がやり直せる機会が増えれば犯罪も減り、今より円滑な人間関係が生まれるのではないでしょうか」とあとがきでつづっているように、人はなぜ過ちを犯すのか、そしてそれを許すのは誰かということが一つの大きなテーマとなっている。
この物語を読み終えたとき、「曜」に対してどんな印象を持つだろうか。そこで生まれてくる感情が、この物語が読者に提示する最大の問いかけなのだろう。(新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。