匂いはさまざまな情報を伝える
匂いは生物間の情報伝達において、どのような役割を果たしているのだろうか?
イギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィン(1809-1882)は、動物同士のコミュニケーションにおいて、視覚や聴覚などの物理的なシグナルだけでなく、匂いなどの化学的なシグナルも重要な役割を果たしていると考えた。また、フランスの博物学者ジャン・アンリ・ファーブル(1823-1915)も『昆虫記』において、蛾のメスがオスを引き寄せる現象を記しており、匂いの元となる揮発性の化学物質がそのシグナルに関与していると分析していた。同種の動物間で情報伝達される外分泌物は「エクトホルモン」と呼ばれてきたが、1959年にその存在が確認され、「フェロモン」と定義されるに至った。
匂いという化学シグナルの役割は、同種の異性を引き寄せる以外にもある。例えば、潜在的に有害あるいは不快な化学物質を発すれば、他の生物を周囲に近寄せない効果も示しうる。これらは、生物が発した感情が匂いに現れ、それが情報伝達に利用されていると捉えられるのかもしれない。
これまであまり研究がなされてこなかったが、同調性あるいは非同調性に関連して、ヒトも無自覚で匂いによる情報伝達を行ってきた可能性が高い。2012年11月、オランダ ユトレヒト大学の社会・行動科学の研究者グン・セミン博士(Gün Semin)らは、ヒトも化学シグナルを介して実際に心の状態を互いに交信できることを科学的心理学会(Association for Psychological Science)の機関紙『サイコロジカルサイエンス(Psychological Science)』誌において発表した。
セミン博士らは、汗のような分泌液に含まれる化学物質が発信者と受信者の双方においてある種の感情的な同調を確立し、類似したプロセスを起こすものと仮定した。特に、恐れと関連した化学物質を吸い込んだ人々は恐れの感情を示し、嫌悪感に関連した化学物質を吸い込んだ人々はやはり嫌悪感を示すのではなかろうかと考えたのである。
その仮説を検証すべく、実験者らは男性のグループに特定のTシャツを着せ、恐怖感か嫌悪感のいずれかを誘発する動画を見せた。起こりうる汚染を避けるため、男性らは厳格なプロトコルに従っていた。実験の2日前からタバコや過度な運動、匂いの強い食べ物やアルコールの摂取は許されなかった。また、パーソナルケア製品と洗剤に関しても、無臭のもののみ実験者らによって与えられていた。
のちに男性らから汗を含んだTシャツが回収された。そして、視覚探索の課題に取り組む女性らがその汗の匂いに曝されたのである。この時、彼女たちの表情は録画され、目の動きも追跡されていた。
匂いは感情も運ぶ
結果は、研究者らが予測していた通りであった。恐怖感の汗の化学物質に曝された女性たちは怯えた表情を示し、嫌悪感の汗の化学物質に曝された女性たちもまた嫌悪感を表情に出したのだった。また、追跡調査も行われ、同じ方法で被験者らが前向きな感情を抱くケースでも試されたが、やはり同様に感情が伝わることが確認された。
これまで、ある男性が発する体臭を不快に感じる女性もいれば、心地よく感じる女性もいることから、体臭も男女の相性を判断する指標の一つになることは知られていた。だが、この実験により、匂いの化学シグナルは、そのような情報をはるかに超えて、感情に関わる情報をも伝達しうることがわかった。
そして、化学シグナルは媒体として作用し、人々は無自覚で感情的な同調を起こしうることが示唆された。セミン博士らは、このような効果が、しばしば大群衆が関わる状況で観察されるある種の「感情的伝染(感情の波及・共有)」に少なからず関与しているものとみなしている。例えば、スポーツ競技やコンサートの会場での熱狂や集団幻覚にも適用されるかもしれない。
ところで、このケースでは、Tシャツに残留した汗の化学物質が情報の伝達に関与していたと思われるが、こんな場合はどうだろうか。ときに、特定の場所を訪れた際、かつてそこで暮らしていた人々の様子が感じられ、感情を共有できてしまうケースである。もちろん、これは特別に繊細な感覚を持ち合わせた人や、ある種の霊感を有する人でしか感じられないことかもしれない。
このようなデジャヴ(既視感)、いや既知感と似た体験を説明するのに、世間では前世の一つにおいて、そこが実際に馴染み深い場所であったとするものがある。決してその可能性を否定するものではないが、ここで他の説明も浮上することになるのかもしれない。特別な感覚を得た場所が、例えば建物の場合、その壁や床などに感情的な情報を伝えうる化学物質が長期に及んで残留していて、過去の他者が発した化学物質に触れて同調し、疑似体験する可能性である。
もちろん、そこで同調的に体験しうるのは特別な感情のような漠然としたもので、ストーリーを含めた具体性は伴わないかもしれない。だが、そんな感情がデジャヴや既知感と結びつく可能性や限界を知る上でも、さらにこのような研究を進めていく価値はあるように思われる。これまで、このようなことはあまり学問的に研究されてこなかった。さらにさまざまなケースを調べていくことで、神秘とされた領域が次第に明らかとなっていくのかもしれない。
(文=水守啓/サイエンスライター)