映画『ヤクザと家族 The Family』から見える、21世紀のリアルすぎるヤクザ事情
今年、33歳という若さで日本アカデミー賞を獲得した気鋭の映画監督・藤井道人。そんな彼の新作は『ヤクザと家族 The Family』。そして、本作の監修・所作指導をしたのが、当サイトの執筆陣のひとりであり、元ヤクザの肩書を持つ作家の沖田臥竜。これまでのヤクザ映画とは一線を画す、徹底的に「ヤクザのリアル」を追求した同作品は、現代社会に何を訴えかけるのか? どこよりも早く、当事者2人が語った。
『新聞記者』のチームで挑んだヤクザ映画
――『新聞記者』で日本アカデミー賞最優秀作品賞などを獲得した藤井監督ですが、来年公開される新作はヤクザをテーマにしたもので、しかも監修と所作指導を務めたのが、弊社(サイゾー)でアウトロー関連本を複数出版したり、当サイトで山口組関連のレポートを執筆したりしてくれている沖田さんということで、早速話を聞きたく、今日は集まっていただきました。まだ、試写会も行われておらず、出せる情報の限られている中ですが、この作品を軸に、現在のヤクザ事情についても伺えればと思っています。
藤井道人(以下、藤井) 新作のタイトルは『ヤクザと家族 The Family』というんですが、実は、その前に9月4日に『宇宙でいちばんあかるい屋根』という映画が公開されるので、そちらの宣伝もお願いします(笑)。
――はい。その映画については、あらためて関連サイトのほうで取材をさせていただきますね。ところで、前作の『新聞記者』は、現政権やそこに忖度するメディアへの強烈な批判精神が溢れている骨太な作品で、『宇宙でいちばん~』は清原果耶さんが主演のファンタジー色もある青春ドラマ。そして、『ヤクザと家族』は、社会から阻害されたアウトローたちの人間ドラマ。特に、タイトルにある通り、「家族」を軸に描かれています。
藤井 『新聞記者』は自分が監督をするまでに紆余曲折あって、自分の精神から生み出された作品とは言い切れなくて、プロデューサーがしたかった社会への挑戦状という側面が強かった気がしますね。その挑戦的な意図が明確に伝わるような映画にしたかったので。
――『新聞記者』の原案は、安倍政権批判の急先鋒である東京新聞の望月衣塑子記者で、プロデューサーの河村光庸氏も安倍政権下での民主主義の形骸化を憂える発言をよくされています。いわば、その“反権力映画”が日本アカデミー賞を受賞したことは、特にネット上で賛否を呼んだというか、右の人たちからは「赤デミー賞」などと揶揄する向きもありましたね。
藤井 『新聞記者』については、一切エゴサーチしないと決めています。望月さんや河村さんほどの強い政治的な信念もなく、傷つきそうなので(笑)。その『新聞記者』と同じチームでつくったのが『ヤクザと家族 The Family』です。『新聞記者』を撮り終わった後、プロデューサーの河村さんが「藤井、ヤクザ映画って興味ある?」って言ってきて。そもそも2012年に『けむりの街の、より善き未来は』というヤクザをテーマにした長編を撮ったことがあって、またやりたいなと思っていたんです。ヤクザの世界を描くにしても、軸を何にするかいくつか出し合った時に、今までにないものにしたかったので、その中から、家族関係を軸にしつつ、ヤクザやその家族の人権とか、ヤクザである主人公の周辺にいるそれぞれの立場の人間が、社会に対してどう生きていくのかというところを描こうと思いました。
――『ヤクザと家族』は、元ヤクザである沖田さんが書く作品とも通じる部分が多くあったそうですね。
沖田臥竜(以下、沖田) 自分も脚本を読んだ時にびっくりしましたね。自分の場合は、『死に体』(れんが書房新社)や『忘れな草』(サイゾー)といった作品もそうなんですが、実体験をもとに、一人の男がヤクザになる前と、ヤクザになった時と、ヤクザをやめた後の人生を軸に物語を書くことが多いんです。ヤクザものだけど、抗争を中心にした切った張ったの暴力的な世界を書きたいわけじゃない。ひとりの人間であるアウトローのリアルな姿や心情を書きたいのですが、『ヤクザと家族』もまさにそんな作品やったんで驚いたし、喜んで製作に協力させてもらいました。
「見たことないヤクザ映画を撮ろうと決めてました」(藤井)
――物語を簡単に説明すると、綾野剛演じる主人公の山本が不良少年時代に、舘ひろし演じるヤクザの親分・柴咲に救われたことで、親子の盃を交わすことになる。実父を失い、孤独になった山本は、ヤクザになることで新しい家族(親分や兄弟)を持つことができ、そんな組織のために体を懸ける。一方で山本はある女性を愛し、彼女に本当の家族像を求める。ただ、現代社会の中で、ヤクザであり続けること、ヤクザが家族を持つことの困難さを突きつけられる――山本の半生を縦軸に、敵対組織との争いやヤクザ組織の衰退、新時代のアウトローの勃興、警察の腐敗、そして家族との関係など、多くの要素が絡み合っていく。ヤクザ映画と聞いて想像する、抗争や犯罪、任侠道などを中心に描かれているような作品とはまったく違うようですね。
藤井 見たことないヤクザ映画を撮ろうっていうのだけは決めていました。古くは『仁義なき戦い』から近年は『孤狼の血』とか、ヤクザ映画には、古典や名作もたくさんある中で、そこに肩を並べたいという思いで作ったのではなくて、今の時代を映す時にヤクザを主題にしたら観客にどう届くんだろうっていうところに挑んでみたかった。
沖田 これまでのヤクザ映画の多くは「争い」「暴力」を中心に描かれているけど、今回の作品は「社会」「生活」に焦点が当たっている。それがとてもリアル。今のヤクザをここまでリアルに描いているのは、ほかにはないでしょうね。暴力団対策法に続き、暴力団排除条例が施行されて、ヤクザへの締め付けが強くなって、組織運営もままならなくなっていく。シノギが減って、組員も減って、それでも若い子たちはまだ比較的カタギに戻りやすいけど、長くヤクザの世界にいた年輩者は、ほかに行くところもなく、ズルズルと組織に身を置きつつ、アルバイト的な小銭稼ぎをしている。しかも、そんな彼らの家族も、社会の中で厳しい扱いを受ける。見ていて、自分に置き換えてしまったりして、胸が苦しくなりました(苦笑)。
――『ヤクザと家族』というタイトルを聞くと、『ヤクザと憲法』という東海テレビが制作したドキュメンタリーを想起してしまいます。あの作品は、指定暴力団の二次団体の事務所に密着して、そこから「ヤクザは“法の下の平等”という憲法に定められた理念に沿った生き方ができているのか」という問題提起がされていたかと思います。この作品と通じるものはありますか?
藤井 ありますね。もちろん、『ヤクザと憲法』も見させてもらいました。あちらはドキュメンタリーなんで、実際に起きた「事実」に寄り添うんですけど、映画は絶対的に人間の「感情」に寄り添わないといけない。登場人物の感情を描くために、そこで起きていることの裏側をちゃんとドラマとして構築するというのは、映画を作る際にすごく意識しなくてはいけないと思っています。
沖田 『ヤクザと憲法』では、カメラが回っていないところの実態はわかりませんよね。ヤクザって「24時間、ヤクザでおらんといかん」って言われますけど、やっぱり家庭があったり、他人に見せたくないプライベートがあったり、息抜きしたり、と、ドキュメンタリーだって映されたくないところはたくさんありますよ。映画はそこに踏み込める。特に、憲法で保障された人権とか考える上で、家族との関係や生活がどうなっているのかというのは大事だけど、実際にはそこまで映し出した作品はないでしょう。『ヤクザと家族』はそこをしっかり描いてますね。
藤井 2019年現在のヤクザを描こうとしたとき、すぐに出てくるのは、現役のヤクザはもちろん、ヤクザを辞めても、5年ルール【註:暴力団員でなくなった時から5年を経過しない者は反社会勢力と見なし、契約や取引をしないと定めている企業が多く、国もこれを違法としていない】というのがあって、携帯も買えない、銀行口座も作れないなど、社会から排除されている姿なんですが、そこだけだと映画として伝えたいものが伝わらない気がして。そんな時代に行き着いてしまったヤクザたちは、どうしてその世界に入り、組織や個人としてのどんな栄枯盛衰があったのかという歴史的な流れを知りたくて、参考文献をあさり、取材をして勉強しました。ただ、沖田さんと出会い、話してみると、沖田さんが抱えている体験や情報、そしてそれを言葉にする伝達能力というのがすごくて。元ヤクザに、こんな人がいるんだなと。しかも、経歴を聞いたら、今作の主人公の山本に近くてビックリしたんです。
沖田 たまたまですね。刑務所行っていた年数とか、出所してきた年齢とかが近くて。
舘ひろしのオーラは頂点に君臨する者のそれと同じ
――沖田さんに依頼したきっかけはなんだったんですか?
藤井 今回、助監督を務めた人間が、沖田さんの書くものをよく見させていただいていたようで、声をかけさせてもらったんです。沖田さんが、主人公に近い設定を持っているということを考えてのことだったのかもしれません。
沖田 最初、TwitterのDMが来たんですよ。映画の世界なんて、まったくわからんから、最初は「無理、無理」と思いながらも、助監督の彼と話したら、気があったんですよね。情熱を持っていて、こちらの言うことののみ込みも早くて。最初は、取材協力くらいの形で話をしていたんですが、その時の脚本を見せてもらったら、ちょっと無理がある設定だと思うところもあって。細かく意見を言わせてもらってたり、参考になるような資料を結構送ったりしていたら、監修や所作の指導までやってほしいということになったんです。ただ、修正された脚本を見たら、これはすごいなと。「ヤクザが生きづらくなった世の中」を、ここまで書くんかと。
藤井 沖田さんの協力もあって、脚本も設定もよりリアルにブラッシュアップされましたね。構成員がつけているバッジの色が組織のランクを表しているとか、それすらわからないところからスタートしていたので、細かくチェックしてもらって。演出面でもアドバイスをもらって、例えば、敵対組織との手打ちのシーンなど、そのときはどんなセリフで、どんな流れでいくべきかとか。駆け引きの間(ま)とか緊迫感をうまく再現することができました。
沖田 これまでのヤクザ映画とかVシネは、漫画みたいなもんですよ。見るもんにカタルシスを与えるための誇張されたセリフや演出。エンタテイメントはそれでええんだけど、『ヤクザと家族』はリアルさを追求したいというから、所作指導まで細かくさせてもらいました。しかも、綾野さんも舘さんも、そのほかの役者さんもさすがプロという演技力。誰もがヤクザの所作をすぐ覚えるから、驚かされました。
――沖田さんも出演されているそうですね?
藤井 盃事の媒酌人で出てもらいました。盃事はヤクザ社会では最も重要な儀式で、そこを描いて、映画にリアリティを持たせようと思った時、俳優に教えて演じさせるよりも、沖田さんがやってくれるなら、それがいちばんうれしいなと。
沖田 現役時代にさんざん親分に怒られて、礼儀作法とかいろんなことを教わって、よかったなと思いますね(笑)。
――あれだけの大物役者陣の前で演じて、ビビリませんでしたか? セリフを噛んでしまうとか。
沖田 そこは全然ですね。もともとは、あれをヤクザに囲まれてやってきたわけじゃないですか。それこそ失敗できませんよ。実際にはないですが、盃事で失敗したら、小指が飛ぶんじゃないかとか、そういう緊張感の中でやってましたし、媒酌人の言葉は現役時代50回は言ってるので間違えることはないですね。映画は撮り直しもできるし、気分は全然楽。他の演技をやれと言われたら、まったくできませんけど。
藤井 舘さんは沖田さんのこと、「先生」って呼んでましたね(笑)。
沖田 自分は小さい頃、『あぶない刑事』【註:1986~87年に放送された舘ひろし・柴田恭兵主演の刑事ドラマ】見てきているわけじゃないですか。その人にマンツーマンで指導して、向こうはこっちに「先生、これでよかった?」って。この体験は、宝物になりますよ。ヤクザをやっててよかった(笑)。それに映画作りの現場を体験できたのも、ものすごい思い出になりました。総勢150名くらいで文化祭の準備をしている感じですよね。強烈な熱気があって、ヤクザ映画だからとかじゃなく、映画界におけるものづくりの姿勢は、自分がものを書くうえでも勉強になりました。最初は、待たされる時間も長かったり、同じ場面を何度も取り直したりと、一見効率が悪いっていうか……それで舘さんに「いやぁ、ツライですね」とこぼしたら、「でも、病みつきになるんですよ」と返されて。確かに、終わってみたらわかりますよね。あの活気を味わいたくなるというのは。しかし、舘さんのオーラはすごかった。実際には、あんなオーラの親分はなかなかいませんよ。司さんみたいでしたからね。
――六代目山口組の司忍組長ですか?
沖田 頂上にいる人のオーラです。悟りを開いた、神様、仏様みたいな感じで。逆に、綾野さんは現代のヤクザ像を見事に演じてくれてる。破滅的で刹那的。そんな人間はヤクザとして生きることが最初はおもしろいんだけど、時代が変わって、家族ができても、そういう性根の部分が変えられず、悲劇が待っている――みたいな。綾野さんは、常にその危うさをまとってました。
ヤクザにとって「家族」とは?
――映画は、その二人が親子の契りを交わすところから物語がスタートするそうですね。
藤井一度はタイトルも『一家と家族』にしようと考えてたくらいで、家族の意味を再考したかった時に、ヤクザ社会の“一家”という概念にすごく興味を惹かれました。社会からこぼれ落ちてしまった人たちや、家族を持てなかった人たちが寄り添って、一家という擬似家族を構成する。「親父」「兄弟」「兄貴」とか呼び合って、すごく特有ですよね。親殺し、子殺しの事件などもあるように、血縁で支えられた家族というものに対しての希薄さが社会に蔓延している中で、ヤクザの一家の絆は、本当の家族以上にも見える。でも、やはり本当の家族を持たないと埋められない部分もある。『ヤクザと家族』は、そこを映し出せたらいいなと思いました。
――沖田さんの場合、盃を交わした家族と本当の家族というのは、どう違うものでしたか?
沖田 若い時は、組織ありきですよね。言われるんですよね。「家族を持つな。おんなこどもを作るな」と。なにかの時に未練が残るって意味で。やっぱり20代の頃っていうんは、ガムシャラじゃないですか。そういうことがカッコええと思うんですよ。一方で、家族を持っている人もいて、組織のために罪を背負って、刑務所に15年とか行くような場合、組織は「家族の心配はするな」と言ってくれる。ただ、残した家族に対して、最初は組織が経済的に面倒見てくれても、状況が変わるじゃないですか。組織運営が厳しくなったり、解散したり。そしたら、家族だって待っててくれませんよ。生きるために別の道を選ぶでしょ。刑務所の中にいる人間は「あんだけ家族のことやってくれる言うたのに、やってないやんけ」と組織を恨むことになる。
――それぞれの「家族」を失うことになりかねないと。
沖田 そんな話を聞くと、そもそも家族は持たないでおこうとなりますよね。でも、30代とかになってくると、当たり前の幸せが欲しくなって、行き着くとこは家族であって、そもそも偉い親分衆を見てると、孫までおるわけなんですよ。「人には持つなと言ってるくせに、自分にはおるやんけ」みたいな(笑)。自分は刑務所から出て、ヤクザやめてから、30代で家族持ちましたけど、やっぱりヤクザをやってきたということは、カタギの人間を泣かしているんで、いきなり一般の家庭と同じようにやれるかいうたら、難しいところはあると思いますね。そこは『ヤクザと家族』にもものすごく反映されてますよね。
ヤクザに「暴力」は必要、ヤクザは社会の「必要悪」!?
――ただ、ヤクザはそこまで社会に迷惑をかけているのか、という疑問もあると思います。もちろん、組織的に犯罪を犯しているところや、組織の中で犯罪を犯す人はいるでしょうが、ヤクザという属性を理由に十把一絡げに法的規制をかけることに不条理さを感じることはないですか?
沖田 いや、誰がなんといおうと自分の意思で決めたことじゃないですか。結局、ヤクザをやる人間が悪いんですよ。常識的に考えて、ヤクザが正しいか正しくないかはわかるわけですよね。落ちこぼれだろうが、家庭環境が悪かろうが、ヤクザになったことは他人のせいにはできない。社会から疎外されることを不満に思ったとしても、それはヤクザをやる人間が悪いという結論しかない。
――ヤクザの中には、自分たちは暴力団ではなく侠客で、義理人情を重んじる生き方を実践している、という人はいますよね。純粋にそういう生き方をしているヤクザは、社会から批判を受ける必要はないと思ったりもします。
沖田 その考え方は人それぞれだと思うんですけど、自分は、ヤクザは暴力団じゃないとあかんと思ってました。暴力が背景にないと、義理人情を重んじて行き着いた先で、人を守ることも助けることもできないと。法令遵守していたんじゃ解決しない話も、暴力がバックにあることで話し合いが進められる。だから、暴力団といわれるのは自分からしたら理想やったんですよね。まさに「必要悪」として存在していたわけで。ただ、それを権力側は「絶対悪」として厳罰化しだした。そりゃ、そうですよね。暴力団を利用して利を得る者がいれば、その相手側は恨んでますからね。自分を守ってくれる暴力団は善で、相手側は悪なんて理屈は社会が許さないわけで、存在自体を悪とする。そうなると、ヤクザの意味はどこにあるねんってなりますよね。ただ、だからってヤクザを簡単には辞められない。いっときは家族以上でもあった人間関係をすべて断ち切るなんて難しいし、仮に辞めても社会の厳しさが待っていたりと。
――映画の中でも、元ヤクザやその家族が、SNSで誹謗中傷を受けたり、会社や学校をやめざるを得なかったりと、苦難に直面します。当然、ああいったことは現実にも起こっているわけですよね。特に、家族が疎外されるような仕打ちを受ける理屈はないと思います。
沖田 家族のために足を洗っても、自分の過去が家族を傷つける。ヤクザにとって、家族を持つのはそれぐらいの覚悟がいることなんかも。
暴力団がなくなっても暴力は連鎖していくのか
――藤井監督は、『ヤクザと家族』でも描かれた、現代のヤクザが置かれている状況とか社会からの目の向けられ方は、仕方がないのか、不条理なのか、割り切れるものではないと思いますが、どちら寄りのメッセージを伝えたかったというのはありますか?
藤井 それはどちらにも寄らないというのは最初から決めていて、意識したのは、時代としてそれを見るっていう点ですね。特に暴力というのは連鎖しているということ。どちらに寄ることもなく、自分が描きたかったのは次の世代。暴力団が衰退しても、次の暴力が生まれてくる。その暴力をどういうふうに主人公が止めるのかというところにメッセージを込めました。
――現実社会でもそうでしょうが、暴力団に代わり、より社会経済活動に溶け込んだ形で力をもった半グレの存在や、ネット上の誹謗中傷という新たな暴力なども描かれているとのことですね。きっと、それらも永遠に存在するものではなく、暴力団と同様、時代と共に移り変わっていくことが想像できます。
藤井 やはり時代ってすごく変わってきていて、暴力というカードを武器にヤクザが必要とされていた時代もあれば、不要となる時代も来る。これって、人間生活のすべてがそうだと思うんですよね。それが建設的な方向に変わっていけばいいんだけど、暴力の連鎖、負の連鎖というものは必ずある。それをどう止めるかっていうことをディスカッションする材料として、この映画が存在してくれたらいいなと思いますね。
――藤井監督は、『ヤクザと家族』の作品としての手応えはどうですか?
藤井 完成までもう少しですが、現状では最高ですね。というか、毎回、悔いがないようにやっているので、あとは観客の反応を楽しみに待ちたいと思います。ただ、最高といえるような準備をすることが映画って一番大事なんです。撮影現場で撮りながらいいものを作ろうというだけではなくて、沖田さんと一緒に脚本を練り込んだところから、取材して、時代考証をして、衣装合わせを何回もしてという、準備段階で出来上がりの点数がほぼ決まる。そこができてないと、現場でいい演出をしても、役者さんがいい演技をしても、最高の作品になることはありません。映画って、やはり大変だけど、終わったらまた作りたくなる。今回の作品もすごく楽しかったですね。
沖田 自分もこの作品には自信を持てます。昨今のヤクザ映画ではダントツにリアル。そうするために自分も協力したので、これ以上のものを作られたら、自分の存在意義がないですよ。現在のヤクザを描こうとした時に、暴力中心の映画なんておかしすぎる。じゃ、暴力がないヤクザ映画はつまらないのかといえば、そうではないことを『ヤクザと家族』が証明してくれた。今後も、2020年以降のヤクザを描こうと思う映画があったら、この作品の真似したようになるんちゃいますか。
――公開が待ち遠しいですね。本日はありがとうございました。
(司会・構成=サイゾー編集部、撮影=尾藤能暢/本稿は「月刊サイゾー」9月号掲載の記事を加筆・修正したものです)
●藤井道人(ふじい・みちひと)
映画監督、脚本家、映像作家。1986年生まれ。大学卒業後、2010年に映像集団「BABEL LABEL」を設立。伊坂幸太郎原作『オー!ファーザー』(14年)でデビュー。以降『青の帰り道』(18年)、『デイアンドナイト』(19年)など精力的に作品を発表。19年に公開された『新聞記者』は日本アカデミー賞で最優秀賞3部門含む、6部門受賞をはじめ、映画賞を多数受賞。
●沖田臥竜(おきた・がりょう)
作家。1976 年生まれ。14年に渡世から引退した後、自らのアウトロー経験を生かし、執筆活動を開始。裏社会の詳細なレポートが話題を呼ぶ一方、16年に『生野が生んだスーパースター 文政』(サイゾー)で小説家デビュー。続編『尼崎の一番星たち』と共に増刷がかかるヒットに。近著に『死に体』(れんが書房新社)、『忘れな草』(サイゾー)、共著として、『「惡問」のすゝめ』(徳間書店)がある。『ヤクザと家族 The Family』ほか、映像作品の企画、原作、監修などにも関わる。
【作品紹介】
『ヤクザと家族 The Family』(2021年公開予定)
出演:綾野剛、舘ひろし ほか/監督:藤井道人
現代ヤクザの実像を、1999年、2005年、2019年と3つの時代で見つめる、一人の男とその“家族・ファミリー”の壮大な物語。
『宇宙でいちばんあかるい屋根』(2020年9月4日公開)
出演:清原果耶、伊藤健太郎、桃井かおり ほか/監督:藤井道人
家族関係や恋に悩む、14歳の迷える少女と、不思議な老婆の出会いによって紡がれる、どこか懐かしくて心温まる、ひと夏のストーリー。