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「偉人たちの診察室」第13回・江藤新平

精神科医が語る、江藤新平とADHD…佐賀の乱で大久保利通に処刑された男の隠された特性

文=岩波 明/精神科医
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佐賀県佐賀市の神野公園内にある江藤新平の像。同園内には、江藤が仕えた肥前佐賀藩第10代藩主・鍋島直正の別邸にあった茶室を復元した「隔林亭」などがある。(写真:アトリエサラ/アフロ)

 明治維新の立役者のひとり、江藤新平(1834〜1874年)の人生をたどっていくと、彼の生真面目さ、一途さに身の引きしまる思いを感じるとともに、彼の悲劇はそうした自身の特性と強く関連しているように感じられる。新平は刻苦勉励さと直情的な行動によって新政府の重鎮にまで上りつめたが、大久保利通らによる政治的な駆け引きのなかで敗者となり、反逆者としての最期を遂げるに至った。

 以下の記述は、杉谷昭『江藤新平』(吉川弘文館)、池松美澄『朝焼けの三瀬街道』(佐賀新聞社)などの資料に基づくものである。

 江藤は佐賀藩の藩士で、天保5(1834)年2月9日の生まれである。彼は「維新の十傑」「佐賀の七賢人」にも挙げられる明治維新の中心人物のひとりで、明治政府の初代司法卿(現在の法務大臣)を務め、法治国家としての基礎を定めた人物である。

 江藤の父親は身分の低い武士で、職務怠慢とされて職を解かれたこともあり、新平たちの生活は窮乏していた。父親は、藩の職務よりも義太夫などの芸事や道楽に入れこむ人だった。江藤家の家計は母が支えていて、父が職を失った時期には、母が寺子屋の教壇に立っていた。

 このような家庭のなかで、新平は母の教えにしたがって勉強だけに熱中した。いつも「粗服」で、自分のなりふりにかまうことはなかった。往来を書物を手にして読みながら通り過ぎるので、「狂人」扱いされたこともあった。

 嘉永元(1848)年、新平は佐賀藩の藩校、弘道館へ入学した。成績は優秀だった。その後は藩校の教師をしていた枝吉神陽(えだよし・しんよう)の私塾に学び、神道や尊皇思想に影響を受けた。嘉永3(1850)年には枝吉神陽が結成した「義祭同盟」に、大隈重信、副島種臣(そえじま・たねおみ)らとともに参加をしている。

 外国船がひんぱんに来航する当時の政治状況に影響され、安政3(1856)年には開国の必要性を説いた『図海策』を執筆した。その後新平は、佐賀藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務めている。

桂小五郎や姉小路公知らと交流し、尊王思想へ傾いた江藤新平

 文久2(1862)年、新平は脱藩して京都で活動し、長州藩士の桂小五郎木戸孝允)や公家の姉小路公知(あねがこうじ・きんとも)らと交友を持った。この新平の行動は、佐賀藩の官吏として藩政改革に取り組んできたものの思うように事態が進まないことに焦りを覚えたことが原因であったようである。この時点で新平が明確に「倒幕」に傾いていたわけではないが、「尊王」を主なスローガンとして中央に活路を求め、改革を企てようとしたのだった。

 新平は京都で公家や各藩の志士と接触し、佐賀藩の同志とともに、藩主・鍋島直正(なべしま・なおまさ)を動かして改革の主導権を握ることを画策していたが、この試みは不発に終わった。

 やがて帰郷した新平は、通常は死罪となるところ、彼の能力を高く評価した藩主の裁量によって、永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減されている。蟄居中の生活は苦しかったが、政治活動は継続していた。当時の心境を新平は次のように述べている。

山中雑詠
 箪中に食なく、嚢に銭なし
 妻は病み、児は哀しむ梅雨の天
 唯、腰刀を舞はしめ、義勇を鼓す
 満山の草木、凄然たり

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江藤が仕えた肥前佐賀藩第10代藩主・鍋島直正。(画像はWikipediaより)
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