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『鎌倉殿の13人』で爆笑の佐々木家は名門中の名門…黒田官兵衛、豪商三井家のご先祖様?

文=菊地浩之(経営史学者・系図研究家)
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佐々木氏の棟梁・佐々木秀義の4人の息子たち。写真はNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、待ちに待った4兄弟がようやく参着したシーン。凛々しいけど、秀義を怪演した康すおんにすべて持っていかれた感……。(画像は同番組公式Twitterより)

歯がなくフガフガと何を言っているのかさっぱりな佐々木秀義、その4人の息子らの大活躍

 少し古い話になるが、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第4回(1月30日放送)で、源頼朝(演:大泉洋)を慕って源家累代の家臣・佐々木秀義(ささき・ひでよし/演:康すおん)が尋ねてきた。歯が抜けた老人で、何を言っているのかサッパリわからないという好演ぶりにネットは大爆笑。アテにしていた秀義の4人の子どもたち(定綱・経高・盛綱・高綱)は遅れに遅れて参着し、やっと出陣と相成った。

 その時、秀義に歯が何本残っていたのかは、残念ながらわからない。そもそも歯がほとんどなく言語不明瞭というのは三谷幸喜の作り話で、史実ではない(が、ホントにそうだったのかもしれない)。

 ただし、4兄弟が大雨で遅参し、山木館襲撃が遅れたのは事実だという。

 そして、佐々木経高の放った矢で山木館襲撃が始まり、定綱・経高・高綱の3人が堤信遠(つつみ・のぶとお/演:吉見一豊)を討ち、盛綱が加藤景廉(かとう・かげかど)等とともに山木兼隆(やまき・かねたか/演:木原勝利)を討つという、大車輪の活躍をした。

 もっとも、佐々木4兄弟の武功がちゃんと伝わっているのは、その子孫が出世して先祖の武功をえんえん書き連ねたからだという話もある。そこで、ここでは佐々木氏について述べていこう。

佐々木氏は近江の佐々木荘の出身、先祖は宇多源氏というがさてどうか

 佐々木氏は、近江国佐々木荘(滋賀県近江八幡市)を出自に持つ。先祖は宇多源氏ということになっているが、本当は古代豪族の沙沙貴山君(ささき・やまぎみ)の子孫じゃないかといわれている。

 佐々木秀義は摂関家に仕え、同じく摂関家に仕えていた源為義(みなもとの・ためよし/頼朝の祖父)の家人となって、その猶子(ゆうし/家産の相続をともなわない養子)となった。妻は為義の娘で、頼朝にとっては叔父にあたる。

 平治の合戦では源義朝(みなもとの・よしとも/為義の子、頼朝の父)に従って敗戦。佐々木荘を失い、叔父の奥州藤原氏をたよって東北に敗走中、相模国(さがみのくに/神奈川県)の渋谷重国(しぶや・しげくに)に呼び止められる。渋谷家に居候して、その娘を後妻にもらい、援助を受けた。

『鎌倉殿の13人』では秀義のあとに4兄弟が駆け付けたのだが、実際は長男の定綱が一番先に駆け付けた。秀義は大庭景親(おおば・かげちか/演:國村隼)から頼朝を討つと聞かされ、慌てて定綱を走らせ、頼朝に注進したのだ。頼朝はそのまま北条邸に残るように指示したのだが、定綱は甲冑を取りに戻ってしまう。佐々木一族がかくまっている渋谷は平家の家人なので、頼朝は情報が漏れるんじゃないかと、えらくヤキモキしたという。

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視聴者に強烈なインパクトを残した、康すおん演じる老将・佐々木秀義。癖が強い! (画像はNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』公式サイトより)
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佐々木4兄弟の中でもとくに4男の高綱は宇治川の先陣争いで名高い。頼朝の重臣として活躍したが、晩年には高野山で出家、西入と号した。画像は和歌山県高野町泰雲院所蔵の伝佐々木高綱肖像。(画像はWikipediaより)

佐々木秀義の息子ら4兄弟は源平合戦で活躍し、北条氏に次ぐ一大勢力に

 佐々木4兄弟は山木館襲撃で武功を上げ、石橋山の合戦、富士川の合戦などに参陣。元暦元(1184)年の宇治川の戦いで、4男・高綱が頼朝に与えられた名馬「生唼(池月/いけづき)」に乗って梶原景季(かじわら・かげすえ/梶原景時の子)と先陣を争ったことは有名である。4兄弟だけではなく、老齢の父・秀義も参陣したらしい。同元暦元年7月、平家の残党が近江で蜂起すると、これを鎮圧するために出陣して討ち死にを遂げた。享年73。

「平家滅亡後には本領の佐々木荘を回復し、兄弟で確認できるだけでも西国方面の十一ヶ国の守護を任じられたが、この数は北条氏に次ぐ。また、幕府の在京活動も担」ったという(野口実編著『図説 鎌倉北条氏〜鎌倉幕府を主導した一族の全歴史〜』戎光祥出版)。

佐々木氏の本流・六角氏は、足利将軍家を担いで一大勢力になるも、織田信長に敗れる

 佐々木氏は北条氏とも姻戚関係を結び、秀義の曾孫・泰綱は京都六角東洞院(ろっかく・ひがしのとういん)に屋敷を与えられ、本流は六角氏を名乗った。

 子孫は室町幕府でも近江守護職を与えられた。六角高頼(たかより)は幕臣や寺社の所領を押領したため、9代将軍・足利義尚(よしひさ)が軍を率いて近江に出陣したが、陣中に没して延命。その後、将軍家の家督相続争いに介入。11代将軍・足利義高(よしたか/のちの義澄[よしずみ])を奉じて京都に乗り込んだりした。高頼の子・六角定頼(さだより)は12代将軍・足利義晴、および13代将軍・足利義輝が京都から逃亡すると、近江に招き入れて庇護した。その子・六角義賢(よしかた/号・承禎[じょうてい])は、京都に上洛する織田信長と敵対して敗れ、諸国を流浪。一揆勢などとともに蜂起するものの、その度に鎮圧され、事実上、六角家は滅びた。

佐々木氏の支流・京極氏――バサラ大名の末裔、“蛍大名”として江戸時代にも存続

 佐々木氏の有力な支流の一つに京極(きょうごく)氏がある。六角泰綱の弟・氏信(うじのぶ)が京都の京極高辻の屋敷を相続して京極氏を名乗ったのだ。

 鎌倉幕府滅亡の時、六角時信(六角氏3代当主)は最後まで幕府に殉じて討ち死にしたが、氏信の高孫(孫の孫)にあたる京極高氏(たかうじ)は、足利尊氏に従って大活躍。一般には佐々木導誉(どうよ)と呼ばれる。当時、身分秩序をわきまえぬ実力主義派の有力武将を「バサラ大名」と呼んだが、導誉はその筆頭だった。

 京極氏は室町幕府で重用され、侍所別当を世襲する「四職」(ししき)の一角に数えられた。幕府創業当初は六角氏よりも勢力があり、本国の近江守護は六角氏だったが、のちに南部を六角氏、北部を京極氏が分割統治するようになった(半国守護)。戦国時代になると、浅井(あざい)氏の台頭を許し、婚姻を通じて一定の勢力を保つにとどまった。

 京極高次(たかつぐ)の妻は、浅井三姉妹の次女・初である。義兄は豊臣秀吉、義弟は徳川秀忠という恵まれた環境で、関ヶ原の合戦では徳川方に着いて大津城に籠城したが、善戦むなしく降伏。その日にたまたま関ヶ原での合戦が起こり、あと1日持ちこたえられればと惜しまれた。毛利・石田方の大軍を足止めにしたことを高く評価され、戦後、若狭小浜8万5000石に加増されたが、夫人の情実人事と見る向きもあり、「蛍(ほたる)大名」(女の尻で出世した)と揶揄(やゆ)された。

 高次の子・京極忠高(ただたか)は、秀忠の娘・初姫を妻に迎え、将軍家の親族として出雲松江26万4200石に栄転した。ただ、肝心の夫婦仲がよくなかったらしく、初姫の臨終に立ち会わず、相撲見物に興じていたことが露見し、将軍家の怒りを買って改易されかけた。甥の京極高和(たかかず)が6万石に減封されて大名家として存続。子孫は讃岐丸亀藩主となった。

 支藩に讃岐多度津(たどつ)藩1万石、但馬豊岡藩1万5000石、丹後峯山藩1万1144石がある。

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黒田官兵衛は佐々木源氏の流れをくむ京極氏の血を引いているそうだが……。

京極高久は尼子氏を名乗り、一族はのちに戦国大名となるも、毛利元就に滅ぼされる

 京極氏は出雲・隠岐(島根県)などの守護を兼ねた。

 導誉の孫・高久(たかひさ)近江の尼子郷(滋賀県犬上郡甲良町)に住んで尼子(あまご)氏を名乗り、子孫は出雲に下って同国の守護代となって京極氏を凌ぐ勢力を得た。

 尼子経久(つねひさ)、孫の尼子晴久(はるひさ)は戦国大名として山陰・山陽8カ国を治めたが、晴久の子・尼子義久(よしひさ)が毛利元就(もうり・もとなり)に滅ぼされた。

 尼子の遺臣・山中鹿介幸盛(やまなか・しかのすけ・ゆきもり)は、何度も尼子家再興を試みるが失敗し、毛利氏に捕らえられ殺害される。悲劇の忠臣として江戸時代に評価され、月に七難八苦(しちなんはっく)を祈った話が戦前の教科書に採用され、世に広く知られた。

 鹿介の女婿・亀井茲矩(かめい・これのり)は秀吉に仕えて大名となり、子孫は石見(いわみ)津和野藩主となった。

 なお、江戸時代の富商・鴻池(こうのいけ)家は、山中鹿介の末裔と称している。

黒田官兵衛だって京極氏の末裔っていうけど……本当か?

 秀吉の忠臣・黒田官兵衛孝高(くろだ・かんべえ・よしたか/本当は「かんびょうえ」と呼んでいたらしい)も京極氏の末裔と称している。

 京極氏信の子・満信(みつのぶ)が近江国伊香郡黒田庄(滋賀県長浜市)に住んで黒田氏を名乗り、その子孫が備前(岡山県)に流れ着いて、姫路に移り住んだのだというのだが、信憑性に乏しい。官兵衛の子・黒田長政は子どもの頃、長浜城で人質になっていた。

秀吉「この城の近くに黒田村っちゅう村があって、京極の流れの名門があるんだぎゃあ。おみゃあはそこの出(で)きゃあも?」
長政「へぇ~(訛りがキツくて何言ってんだかわかんないけど)。もちろん、そうですわ」

というのが、実情だろう。

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六角・京極・尼子・亀井氏はいずれも、佐々木氏の代表紋・四つ目結を家紋としている。

京都の富商・三井家もまた佐々木氏の末裔……ってホント?

 大坂の富商・鴻池家が佐々木氏の末裔を騙っていると上に書いたが、京都の富商・三井家も佐々木氏の末裔を僭称している。

 三井家の先祖は近江甲賀の武士で、信長が六角氏を滅ぼした時に伊勢に逃亡。松坂で商売を始め、京都に上り、のちに江戸にも店を構えた。三井財閥・三井グループといえば東京を拠点にしているイメージがあるが、これは明治新政府がカネの無心をするのに、京都にいると不便なので東京に強制移住させられたからだ。

 三井家は藤原道長の子孫を自称しているのだが、戦国時代に六角満綱(みつつな)の子が養子に入ってきたというのだ。だから、家紋は佐々木氏の代表紋である四つ目結(よつめゆい)を使っている。

 ちなみに、六角・京極・尼子・亀井氏はいずれも、この四つ目結を家紋としている。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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