そもそも「勝てるかもしれない」と思えない競争で、勝つことはできない、という科学的研究
数多くの大企業のコンサルティングを手掛ける一方、どんなに複雑で難しいビジネス課題も、メカニズムを分解し単純化して説明できる特殊能力を生かして、「日経トレンディネット」の連載など、幅広いメディアで活動する鈴木貴博氏。そんな鈴木氏が、話題のニュースやトレンドなどの“仕組み”を、わかりやすく解説します。
2012年8月5日、ロンドン五輪の陸上種目で「世界最速の男」を決める男子100m決勝が行われた。第5レーンを走ったジャマイカ代表のヨハン・ブレークは驚異の自己ベスト9秒75をたたき出してゴールした。つい5年前ならば世界記録であったはずだ。しかしブレークが手にしたのは銀メダル。彼を大きく引き離してジャマイカの同僚ウサイン・ボルトが9秒63の五輪新記録でゴールを駆け抜けていた。
このレース、陸上競技ファンが注目したのはスーパースターであるボルトのしなやかな走りであったのだが、筆者ら競争戦略の専門家たちが注目したのは、実はブレーク以下の決勝進出者たちがたたき出した結果だった。実に決勝進出した8人中7人までが9秒台。しかも2位から5位までの4人は自己ベストかシーズンベストをマークした。
ここでの疑問は「なぜ、世界最高の舞台で行われる競争では、通常よりも高いパフォーマンスが引き出されるのか?」ということだが、これについて競争を科学的に研究している研究者らは、わかりやすい説明を与えてくれる。
世界最高の舞台で最高のパフォーマンスが引き出される理由は、2つある。
ひとつは世界最高を決める場であるという事実自体が、そのステージに上がった者たちの脳に最高の状態をつくり出すからだ。優れたアスリートは、競争のプレッシャーが高いほど、より高い結果を出せるのである。一般に、競争において50:25:25の集団に分かれるらしいことがわかっている。競争にさらされることでパフォーマンスを上げる人間が全体の50%ほどいる。一方で、競争の場合でも普段、例えば独りで100mを走るような場合と結果が変わらない人たちが全体の25%ほど存在する。そして残りの25%は、競争のプレッシャーを感じて、逆に成績を下げてしまう人たちだ。
当然のことながらトップアスリートと呼ばれる人々は、競争にさらされるとパフォーマンスを上げる50%の中でも、とびきり競争が好きな人たちだ。世界最高の舞台ともなれば瞬間的に最高のアドレナリンが最高のタイミングで放出されて、最高のパフォーマンスをたたき出すのだろう。
●「自分が勝てるかもしれない」と信じられること
ところが最高のパフォーマンスが引き出されるには、もうひとつ重要な要素があるそうだ。この要素が本稿のテーマでもある。
それは「ひょっとすると自分が勝てるかもしれない」と信じられること。言い換えると、トップとの差が埋められる可能性があると考えれば、人は通常以上の力を発揮するというのだ。
ロンドン五輪の男子100mでいえば、2位のブレークだけでなく、3位のジャスティン・ガトリン、4位のタイソン・ゲイまでは、客観的に見ても(そして結果を見ても)9.7秒台を出す可能性があった。仮に通常の世界的レースのように勝負が9.7秒台で決まるとすれば、彼らにもボルトを破って世界最速の男になる可能性はレース前まではあったのだ。