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三浦展「繁華街の昔を歩く」

東京・南千住を歩くと驚きの連続だ…なぜ50年前の光景がそのまま残っている場所が多いのか

文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表
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 千住の宿場というと北千住がメインだが、千住大橋の南詰(南千住側)にも江戸時代から宿場があり、飯盛女のいる旅籠屋があったという。その場所は日光街道沿いだろうと思っていたが、はっきりしなかった。だが、あるとき古今亭志ん朝の落語を聞いていたら、今日は吉原に行くかコツ(=小塚原)にするかというセリフが出てきて、なるほどと思った。日光街道ではなく、その東側のコツ通りのほうにあったようなのだ。

 コツ通りの歴史は古い。徳川幕府ができてまず日光街道を整備したので、街道沿いには煮売屋、茶屋などが多かった。寛文元年1661、北千住の千住宿の加宿(かしゅく。注)となってから、飯盛女を置くことが許され、暗娼(くらもの、私娼のこと)も現れるようになって、江戸の岡場所に1つに数えられるようになったという。

注)加宿とは、主に江戸時代、五街道や脇往還において駅逓事務を取扱う為設定された宿場(宿駅)において、人家が少なく人馬を出しにくい宿駅で隣接する村を加え人馬の用を行わせたもの。

 井原西鶴の「好色一代男」(天和2年、1682年)には、主人公の世之介が小塚原の茶屋町の暗娼あさりをする場面があるという。天和から元禄にかけては江戸の各地に暗娼が激増したので、商売の邪魔になると困った吉原が町奉行に訴状を出すほどであった。

 そうした中で、小塚原町、中村町の飯盛旅籠も私娼窟として繁盛し、1740年代には千住宿旅籠屋仲間あの営業まで圧迫するほどになり、千住五カ町は訴状を提出、小塚原町と中村町に対して旅籠を15軒以上に増やすなと決定された。旅籠1軒につき飯盛女1人という規定も守られず、多数の飯盛女を抱える旅籠が多かったため、10軒は取りつぶしとなり、あとの5軒だけが営業することになるという事件もあったという。

 しかし旅籠が減っては本来の伝馬の役割も果たせないということで、旅籠1軒につき飯盛女1人という規定を遵守する条件で1752年には再び15軒の営業が認められたという。だが、女1人では旅籠の営業が難しく、64年には品川、板橋、千住の宿場でまた女の増員が認められて、といういたちごっこがその後もずっと続いたようだ。結局、女を売るということが旅籠の経営の一貫であるだけでなく、地域振興、税収増加政策になってしまっていたわけである。

 その後、神保町の古本屋で「南千住赤線」という写真何枚かを発見し、購入した。誰か一般の人が撮影したものが売りに出たものらしい。普通の長屋のようなものに見えるが、窓の格子が竹でできており、しかも安い竹なのか、かなり曲がっている。いずれにしろ一般人が住む家なら竹の格子は付けないだろうから、本当に赤線だったかどうかはわからないが、赤線近くの料理屋などだった可能性はある。

 時代は、商業用の小型バイクが写っているので、1958年以降であろう。赤線が制度上なくなったのも1958年だ。昔の旅籠屋があったあたりが戦後は赤線地帯か青線地帯になり、撮影はその直後にされたのではないかと想像する。

 もしやと思って本棚にあった小沢昭一の『珍奇絶倫小沢昭一写真館』を見たら、コツ通りの遊廓の写真が出ていた。古書店で買った写真の様子とは違っているが、同じ遊廓ではないか、または古書店のほうは裏側のほうを撮影したのかもしれない。 

東京・南千住を歩くと驚きの連続だ…なぜ50年前の光景がそのまま残っている場所が多いのかの画像1
神保町の古書店で見つけた「南千住赤線」だという写真
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コツ通り遊廓小沢昭一撮影

コツ通りの東側、西側の両方をくまなく歩く

 古書店で見つけた写真の1枚には、小さな地名看板が映っていたから、拡大してみると大体の場所が推定できた。たしかにコツ通り近くの路地のようである。住居表示は戦後だけでも1度か2度変わっている可能性があるので、あてにはならないが、いちおう現在の所番地と同じだとして調べてみると、旧町名で小塚原町、その北側の荒川沿いの中村町であり、コツ通りの東側だったと思われる。

 そこで3月のある晴れた日、私は写真の場所を特定するために南千住に向かった。コツ通りの東側、西側の両方をくまなく歩いたつもりだが、絶対ここだと確信できる場所はなかった。写真は50年以上前だと思うので建て替わっていておかしくないし、道路も新しく整備中なので、昔の路地が消えている可能性もある。それより何より、南千住にはこの写真のような路地がまだたくさんある! ということが、赤線だったという場所の特定を難しくしたのである。

 それでもびっくりしたのは、写真と同じ商業用小型バイクが停めてある路地があったことだ。路地の幅もすごく似ている。横には古いアパートがあり、もしかしてこれが元赤線の建物かと思われたが、道路に対する建物の角度がかなり違うので、やはり違うのか。もちろん50年以上前と同じ場所に同じようなバイクが置いてあるはずはないのだが。

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古書店で見つけた写真と同じような路地がたくさんある

 赤線跡探しはまた後日するとして、千住大橋の近いところには今も旅館があった。宿場町時代からの流れであろうか。その1つ、旧・中村町の田村屋は創業60年の簡易旅館だが、全館改装を行い、2014年にアーティストの夢を応援する、防音室のある旅館として、リニューアルオープンしたのだという。ツアー中のミュージシャンの常宿として、ライブ前に練習をしたり、俳優、ボーカリストがお腹から発声練習ができるなど、さまざまな用途で利用できるという。

 もう1つのホテル明月は簡易宿泊施設だった建物を2009年に全面改装し、ホテルにしたもの。今度ためしに泊まってみるか。

(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

参考文献

荒川区『新修荒川区史 上巻』荒川区、1955

佐々木勝・佐々木美智子『日光街道 千住宿民俗誌〜宿場町の近代生活』名著出版、1985 

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旧・中村町には今もホテルがある

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三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

82年 一橋大学社会学部卒業。(株)パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。
86年 同誌編集長。
90年 三菱総合研究所入社。
99年 「カルチャースタディーズ研究所」設立。
消費社会、家族、若者、階層、都市などの研究を踏まえ、新しい時代を予測し、社会デザインを提案している。
著書に、80万部のベストセラー『下流社会』のほか、主著として『第四の消費』『家族と幸福の戦後史』『ファスト風土化する日本』がある。
その他、近著として『データでわかる2030年の日本』『日本人はこれから何を買うのか?』『東京は郊外から消えていく!』『富裕層の財布』『日本の地価が3分の1になる!』『東京郊外の生存競争が始まった』『中高年シングルが日本を動かす』など多数。
カルチャースタディーズ研究所

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