白鵬の“あり得ない”行動の裏側
昨年は、一年納めの場所である九州場所のさなかに、横綱・日馬富士の暴力問題が発覚し、これまで相撲に特段の興味を持っていなかった方までも、否応なしにニュースに触れることとなり、相撲界は一体どうなっているのかと不審の念を抱いたのではないでしょうか。その暴力事件が起きた現場には、別の2人の横綱も同席していました。白鵬と鶴竜です。日馬富士を加えた3人の横綱は、いずれもモンゴル出身です。同場所は、鶴竜はケガのため休場しています。白鵬は、日馬富士の事件を受けて多少の動揺はあったかと思いますが、土俵を務め上げました。
しかし、横綱の面目を守るためがんばっていたものの、11日目に嘉風との対戦時、明らかに立ち合いが成立しているにもかかわらず、勝負がついた後、自ら「物言い」をつけ、嘉風の勝ち名乗りの後も土俵を去らず、納得のいかない表情で土俵に立ちつくしていました。それでも、他の力士が総崩れする中、見事に通算40回目の優勝を果たし、自らの持つ優勝記録を伸ばしました。それは立派なことだと言いたいところですが、その優勝インタビューで、来場者と共に万歳三唱をしました。これはありえないことです。先述したように、横綱は「神の領域」ですから、勝負に文句をつけたり、勝ったことを単純に喜んではいけないのです。
こういった一連の問題の背景には、相撲に対する認識、考え方の違いがあります。日本相撲協会の中にもそれはあり、そのことが権力争いにまで及ぶといった、まるで政界のような様相を呈していることも残念に思います。
神事であった相撲が、このような発展の仕方をしていくとは誰も想像もできなかったでしょう。そんな相撲ではありますが、神事であった頃からの伝統、文化が今に至ってもちりばめられています。しかし、それは日本人以外にはなかなか理解できないことなのかもしれません。
白鵬が、これまで相撲界のみならず、日本にもたらした功績が大きいことは誰しも評価するところでしょう。抜群の強さで、実績も申し分なく、あらゆる記録を塗り替えてきたわけですが、どれほどの努力を重ねたとしても、日本固有の文化を完璧に理解することはできないのではないでしょうか。
これは、決して人種差別ではなく、それぞれの国・民族には、それまでの歴史の中で培ってきた素晴らしい伝統や文化があり、その神髄はそこに生まれ育ち、何世代かを経なければ、本当の意味での理解はできないのではないかと、筆者は思うのです。それは、私たち日本人がモンゴルに住んだとしても、同様のことがあるでしょう。そう考えると、白鵬が起こした先述の2つの出来事も、日本の伝統と文化の神髄を理解できないので致し方のないことといえるかもしれません。