介護現場がノータッチの“死後”のこと…“死の質”を高めることこそ重要ではないか
QOD(クオリティ・オブ・デス)、“死の質”を高める
看取り計画のなかで、死後についての項目欄を入れているところはまだそう多くない。あったとしても、せいぜい「臨終時に着るもの」「遺体の搬送方法」「搬送先」「葬儀の場所」「葬儀社名」くらいで、それも「看取り計画のなかで、なんとなく話をした」程度。具体的に死に直面したたとき、「死後どうする」といったところまで踏み込んで話をしている施設はないか、あったとしても事例としては数件程度なのではないだろうか。誤解のないようにいっておくが、あらかじめ葬儀社を決めておくこと、それ自体が重要なのではない。死期が間近に迫った時、本人の生き方や哲学、宗教観を整理し、どのように最期を迎えたいか、また臨終から納骨・法要にいたるまでの一連の葬送儀礼をどのように捉えているか、という正解のない問いに対して向き合う作業こそが大切なのである。
最大の供養は儀式や形ではなく、心であることは間違いない。しかし、葬儀や法要についてはどう考えているのか、お墓の有無、菩提寺のこと等、もう一歩踏み込んで具体的な話に触れれておくだけでも、死生観、スピリチュアルケアに対する考え方を共有することができ、QOD(クオリティ・オブ・デス)、つまり死の質を高めることができるのではないか。
「死後の話はなかなか切り出せない」医療・介護現場
現場からは「看取りの話はできるけど、死後の話はどうしたらよいのかわからない」という声を聞く。もっともな話で、医療でも介護でも、看取りまでの過程についての講義や実習時間はあっても、死後の話についての教育はほとんどなされていない。近年は遺族ケア、つまりグリーフ(悲嘆)にまつわる教育がかなり浸透しているが、それでも死後の教育はエンゼルケアひとつとっても十分になされていないだろう。有史以来、世界中でカタチを変えながら弔い文化が脈々と引き継がれている点に触れ、死は尊いものであることを懇々と説く教育は手薄である。死は暮らしの延長線上にあるものなのに、特に現代社会においては臨終の判定が明確であるがゆえに、医学でいうところの死の定義以降については、制度も業界も分断されているのが実情だ。
ある高齢者施設では、偲ぶ会として簡単な追悼儀礼と懇談会を開催した例がある。そのなかで「亡くなった時の対応について、もう少し話をしておいてもよかったのではないか」という意見があった。同様の声は、葬儀の最中、墓を検討している最中の遺族からもよく耳にする。
死後についてはノータッチ
ACPはもともとは、人生の最終段階における医療・ケアの方針をプランニングしておくことだが、あくまで医学上の死が着地点になる。もともとアメリカの医療機関で考え出された意思決定支援方法論のひとつであるから無理もない。しかし、日本でそれを「人生会議」と改めるなら、地域共生社会をうたい、チームで支えるという福祉政策において、そろそろ死後のサポーターもチームに入るべき存在なのではないかと思う。「終活」という言葉が世に出てから10年、エンディングノートもすでに150種類以上刊行されているなかで、福祉にかかわる人のほうが率先して死をタブー視し、葬儀社や墓石販売業者、寺院など宗教施設を積極的に排除しているような気がしてならないのである。
地域福祉では「制度の谷間をつくらない」ことを掲げているが、現代の「生」と「死」の間には、はっきりとした谷間があるのことは否めないのだ。
ある年の冬、新田ハルさん(103歳)が高齢者施設から旅立った。ご遺体は一旦、施設内の霊安室に安置。そんななか、介護スタッフが発した「ハルさんは、いつも『春が来た』をよくベッドで歌っていた。まるで自分のテーマソングのように」の一言で、枕元には店頭に並んだばかりの桃の花が飾られ、「春が来た」の歌で見送られた。身寄りがなかったので、成年後見人立ち会いのもと荼毘にふされるというシンプルなお別れだったが、温かみのあるお別れであったことはいうまでもない。
しかしその後、ハルさんの遺骨がどこへ行きどのように弔われているのか、誰も把握していない。数年にわたって暮らしをサポートしてきた施設のスタッフでも、死後についてはほとんどノータッチというのが現状なのである。
(文=吉川美津子)