「ゆとり」のないゆとり世代 社会的にスルーされ搾取される若者と、価値観押し付ける大人
ほかにも、新成人に理想の若者像、しかも少し前の若者像を押し付けるような社説も散見された。新成人には選挙権が与えられるわけだが、彼ら彼女らだけでは社会を選べない。こんな社会に、若者に誰がしたのかという議論がないまま、理想の若者像の話などされてもエゴではないか。
もっとも、若者が新聞の、ましてや社説を読んでいるのかどうかは怪しい。だから、これらの成人式社説は絶対安全地帯で老害芸をし、「読者の皆さん、ちゃんと言ってあげましたよ」と言わんばかりの自己満足でしかない。説教をするなら、まず身近な若者に直接言えとすら言いたくなる。もちろん、毎年こんな感じなので、観察対象としては興味深いのだが。そろそろこれらの社説が中高年のカタルシス、公開マスターベーションでしかないことに気づくべきだ。社会と若者の関係を再定義し、彼ら彼女らに責任転嫁するだけではない、社会をよくする発想が必要ではないか。
●若者不在社会、時間の搾取社会を直視しろ
思えば、若者の雇用・労働問題に関する言説が盛り上がったのは00年代前半くらいからだった。「就職氷河期」という言葉が生まれたのは1992年だが、若者の雇用・労働問題が深刻化し、表面化したのはこの頃だった。文部科学省の学校基本調査をみても、この時期は新卒無業者、つまり卒業しても就職も進学もしない者が2割程度も出現していた。ただ、当時よりも20歳前後の若者の数はさらに減っている。社会の中で、存在感がなくなっている。だから、新成人くらいの年齢の若者たちがスルーされる存在になっていたり、搾取の対象になっているのが現実ではないだろうか。
いわゆる劣化言説的な「最近の若者は」論は以前よりはトーンダウンしたように思うが、それは若者に対する理解が深まったというよりは、スルーされる存在になったからではないかと思った次第である。また、若者にとって危険な世の中になっているので、真面目にならざるを得ないのである。ゆとり世代にゆとりはないし、さとり世代といわれるが悟るほどの余裕もないのである。
私が学生だった90年代はまだバブルの残り香があり、若者は消費させられ、消耗させられていた。ただ、「お金の若者離れ」が起こっている現在、今度は「時間を搾取する」ことが起こっていないか。時間は金持ちにも貧しい人にも1日24時間ずつある。さらに、無駄遣いしていること、搾取されていることに気づきにくいのが、時間である。スマホ、ソシャゲに弄ばされ、ブラックバイト、ブラック企業で搾取される若者、増えていないか。
というわけで、若者のことを、どうぞ忘れないで。説教、訓示をするのではなく、揶揄する対象、対立する存在にするのではなく、社会をどうするかという視点が大事だ。
最後に、ちゃぶ台をひっくり返すような意識の高いことを言うが、新成人諸君、私も含めて大人たちに騙されるな。希望の奴隷になるな。美しい言葉に騙されるな。現実を直視せよ。そして上を向いて歩くのはおっさんたちに任せて、前を向いて歩きなさい。若き老害からのメッセージだ。
(文=常見陽平/評論家、コラムニスト、MC)