確定判決は「タオルによる絞殺」としたが、鹿児島地裁と福岡高裁の開始決定では、弁護団が出した「首を圧迫したことによる窒息死と積極的には認定できる所見はない」とした法医学者の鑑定の信用性を認めて、事故死の可能性を示唆していた。今回、最高裁は事故死について「可能性を指摘したにすぎない。証明力には限界がある」と鑑定の信用性を否定して確定判決を支持した。また弁護団が出していた、目撃証言を疑問視した心理学者の鑑定については「心理学的見地からの視点にすぎない」とした。
共犯とされた義弟は自殺、再審請求をしていた甥まで自殺した。原口さんは出所後、夫とは離婚したが、実家が火事になり父は焼死するなど、まさに苦難の半生を歩んでいる。弁護団は「諦めずに戦いたいが、アヤ子さんが生きているうちに雪冤できるのか」と愕然とする。
「殺人事件」としながら、関与に触れず
注目すべきは最高裁が今回、高裁に審理を差し戻すことすらせず、書面の審査のみで再審請求棄却を判断したことだ。事故説を否定し「事件」と断じたのなら、原口さんの関与を証明しなくてはならない。それも避けて法律論だけで片付けたのだ。
朝日新聞は6月28日付け朝刊の社説で「冤罪はあってはならないという観点から事件を見直すことよりも、法的安定性を優先した決定と言わざるを得ない」と端的に指摘した。法的安定性とは「三審までに確定した判決は覆るべきではない。簡単に覆れば司法の信頼性が揺らぐ」という意味である。実に「使い勝手のよい」大義名分だが、要は法曹役人のメンツである。メンツのためには地方の老女の運命など、どうでもいいのだろう。
冤罪に詳しい元裁判官の木谷明弁護士が会見で「無実の人を救済するために裁判所はあるのではないのか」と批判した通り、小池裁判長以下、小法廷の5人の裁判官は確定審へ至った先輩裁判官たちの体面を保つため、「なんとか法律論だけでやれないか」と有罪の理屈を書面だけで探していただけなのだ。
(写真・文=粟野仁雄/ジャーナリスト)