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桓武天皇が意欲的に推し進めた平安京の造営は、並行して行われた蝦夷征伐とともに、財政に重くのしかかった。このため805(延暦24)年、藤原緒嗣の進言によって中止され、翌年、桓武天皇は70歳で没する。
平安京といえば、教科書に載る碁盤目状の整然とした街区の都市が思い浮かぶ。しかし、この図は理想型であり、実際には開発が途中で放棄されたため、歴史上、一度も実在したことはない。
それでもその後、古代国家は不都合なく機能した。ということは、そもそも全域を開発する必要がなく、「設計段階から平安京は過大」(前出・桃崎氏)だったということになる。規模に見合う来場客を集めることのできない、現代の五輪施設を思わせる。
うなぎの寝床と呼ばれるほど間口が狭い京町屋は、現代京都の貴重な景観として有名だ。これは朝廷が設計したものではない。商業が活発になった10世紀頃から、住民が実用性を重視して建てるようになったものだ。街路から垣で隔てられず、直接出入りできる。朝廷は何度禁じても一向に根絶できず、弾圧を諦めた。おかげで京町屋は現代にその風情を伝えることができた。
東京五輪を機に多くの外国人が来日し、観光などで京都を訪れるだろう。そのとき私たちは京都の美を誇るだけでなく、庶民のニーズを無視した平安京の苦い経験や、その教訓を現代に生かせない日本の不甲斐なさについても、忘れないようにしたい。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)
<参考文献>
桃崎有一郎『平安京はいらなかった』吉川弘文館
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