加茂田組若中だった土倉氏が、その後、長期の服役を務めたのち、山健組に復帰していたことは、一昨年、『烈俠』の取材のために加茂田組の拠点だった神戸・番町を歩いていた筆者の耳には入っていた。当時、山健組副組長だった織田氏が番町に新たにつくった事務所に、土倉氏がいるというものだった。土倉氏については『烈俠』でも詳しく触れたかったが、加茂田組解散後も、同氏は現役で活躍中とのこともあり、それは叶わなかったのである。
土倉氏を一言で説明すると、「番町の喧嘩太郎」と呼ばれていた通り、加茂田組と他の組織との間で抗争が始まると先陣を切るような武闘派で、加茂田組長のボディガードという重責を担っていた人物である。山一抗争の際には、加茂田組の月寄り(幹部会)で「この喧嘩は親分の喧嘩やから下っ端ばかり動かさんと、直参が道具を持って動かんとあかん」と話し、前述のように実際に相手を撃ちに走ったという逸話を持つ大物だ。
そんな土倉氏は加茂田組の直系の人間であり、その経歴から任俠団体山口組に重鎮として迎えられることは不思議ではないが、その記者会見に参加していることからも新組織の姿勢を感じることはできる。山一抗争で18年という長期刑に服し、今もなおその名前は神戸では大きい土倉氏を相談役に置くということは、同組織の戦う姿勢を内外に誇示しているのと同じだからだ。
金銭闘争 !? 三代目の教えはどこに?
さて、その分裂した新組織である任俠団体山口組の全容がここになってきて明らかになってきた。本部は置かずに持ち回り制で定例会を開き、東日本、西日本と組織を分けて、東は山健連合会、西は山健同志会と二次組織を作り、会長職は置かずに、共に会長代行職を設けたのである。
また、任俠団体山口組の役職名も入ってきた。正式な発表はないが、この様な役職になるであろう、と情報提供者は明かした。
代表 織田絆誠
本部長 池田幸治(四代目真鍋組組長)
本部長補佐 山崎博司(山崎会会長)
本部長補佐 久保真一(山健同志会会長代行)
本部長補佐 金澤成樹(山健連合会会長代行)
本部長補佐 新井孝寿(雅新会会長)
相談役 土倉太郎
(敬称略)
また、5月5日段階で参加組織は、山健同志会25団体、直参29名、山健連合会11団体、直参12名と報告されている。代表の織田氏、本部長の池田氏は神戸山口組からすでに絶縁を通達されており、その他の人間に対しても、次回の神戸山口組の会合に出席しなければ、処分するという通達が回っているのだ。さらに7日には京都市内で任俠団体山口組の集まりが行われ、新たに作られた組織・京滋連合が加わり、元健竜会(神戸山口組三次団体)の大谷栄伸氏が本部長補佐という要職に就いた。ただ、この人物は健竜会を処分された後、六代目山口組の淡海一家に在籍していたとの情報もある。
一方、同時期に、四代目山健組は織田氏と絶縁したのに続き、大下秀夫氏(四代目山健組舎弟)、金澤成樹氏、久保真一氏、田中勝彦氏(ともに四代目山健組若中)の4名連名での絶縁状を回している。
六代目山口組の分裂も金銭のもつれ、神戸山口組の分裂も金銭のもつれという話になっているが、現在もその金銭関係で、誰それが神戸山口組に戻る戻らないというような、さまざまな噂が行き交っているのが現状だ。真実は当事者しかわからないが、今回の分裂の裏には、かなりの軋轢があったのは間違いない。
ここで、知り合いの古い稼業の人間が語った言葉を紹介しよう。「誰もが三代目田岡一雄親分を尊敬して神の様に思っているのは分かる。だけど三代目の教えを受けているのは今の人間ではおらんやろ」
その言葉の意味は、山口組を日本最大の組織にした田岡一雄・三代目山口組組長の背中を見て育った直参の人間も、今でも唱和される綱領を田岡三代目に直に教えてもらった人間もいなくなり、山口組の本来の姿が失われつつあるということであろう。
山口組綱領とは、
山口組は侠道精神に則り国家社会の興隆に貢献せんことを期す。
一、内を固むるに和親合一を最も尊ぶ。
一、外は接するに愛念を持し、信義を重んず。
一、長幼の序を弁え礼に依って終始す。
一、世に処するに己の節を守り譏を招かず。
一、先人の経験を聞き人格の向上をはかる。
という五カ条である。
また、加茂田氏は、田岡三代目のことを『烈俠』でこのように語っている。「田岡の親分という人がどういう人かといえば、そら天皇陛下みたいなもんや、わしら極道にとって天皇陛下や」
天皇と呼ばれるような強力な求心力やカリスマ性を持ったトップがいないなか、日本最大組織だった六代目山口組から始まったまさかの分裂劇。今後どのような展開になるか予断を許せない。
(文=花田庚彦)
●花田庚彦(はなだ・としひこ)
作家、ジャーナリスト。伝説的親分・加茂田重政氏の自叙伝『烈俠 山口組 史上最大の抗争と激動の半生』(サイゾー)では、聞き手を務め、数々の重要証言を引き出している。