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任俠団体山口組・織田絆誠代表の生き様を考察…ケンカは超一流、性根は「生粋の極道」

文=沖田臥竜/作家
任俠団体山口組・織田絆誠代表の生き様を考察…ケンカは超一流、性根は「生粋の極道」の画像1神戸山口組若頭代行時代の織田代表のインタビューも掲載されている『山口組分裂「六神抗争」365日の全内幕』(宝島社)

神戸山口組分裂が分裂し、任俠団体山口組が誕生してから早くも3週間が経とうとしている。この間、さまざまな情報が錯綜する中、多くの人が共通して興味を持ったのが、今回の騒動の中心人物である任俠団体山口組の織田絆誠代表だろう。神戸山口組・井上邦雄組長の腹心といわれた人物でありながら、親分と袂を分かち新団体を設立。山口組の再統一を目指すという。そんな織田代表とはどんな人物で、どんな道を歩んできたのか。元山口組二次団体最高幹部で、現在は作家活動を行う沖田臥竜氏がその姿を書き下ろす。

 筆者の知り得る限り、極道になるためにこの世に生を授けられたと思う男にこれまで出会ったことがない。たった一人の俠(おとこ)を除いて。

 8年前、筆者が服役中であった大阪刑務所。その人物は、刑務所内のグラウンドの一塁側中央に腰を下ろし、ただならぬオーラを放ち続けていた。彼こそが現在、社会の表裏両面からスポットライトが照らされている、任俠団体山口組の織田絆誠代表であった。

 1966年10月23日に大阪で生まれた織田代表は、十代の頃から同級生の不良グループの中では抜きん出た存在であったと、当時の織田代表を知る関係者は話している。その頃にはすでに、将来は極道として生き様を刻むという決意を周囲に語っていたらしい。

 その宣言通り、84年頃に稼業入りし、約4年後に「ケンカ、負け知らずの倉本組」と謳われた倉本広文組長率いる初代倉本組の門を叩いたといわれている。さらに、その2年後に勃発した山口組抗争史に名を刻む「山波抗争(五代目山口組弘道会と大阪・波谷組との間で起こった、組員の引き抜きに端を発し勃発した抗争)に参戦し、12年の社会不在を余儀なくされ、徳島刑務所に服役したのだった。 

 徳島刑務所とは、主に8年以上の懲役を言い渡された長期服役者を収容しているLB級と呼ばれる刑務所の中でも、犯罪傾向の進んだ者や暴力団関係者を多く収容している施設として有名である。織田代表が入所した当時の徳島刑務所には、そうそうたる面子が服役していた。 

 大阪戦争(1970年代に三代目山口組と松田組(解散)との間で約3年にわたり繰り広げられた抗争事件)での功労者の一人といわれる、のちの神戸山口組・井上邦雄組長(四代目山健組組長)。その抗争で井上組長にそれ以上の類が及ばないように、大阪府警の激しいヤキ(取り調べ)にも沈黙を守り続けた山本國春・元四代目山健組若頭。そのほか、すでにプラチナ(山口組直系組長)であった古川雅章・初代古川組組長。山健組の由緒正しき伝統ある組織の姿を後に受け継ぐ五代目健竜会・中田広志会長や五代目豪友会・加藤徹次会長。六代目山口組分裂の渦中に自らのその身体でケジメ(自決)を果たしたといわれる、三代目倉本組・河内敏之組長などの親分衆が服役していたのだ。 

 そんな徳島刑務所の中でも、若き日の織田代表の気性の荒さ、凶暴さは当局も手に負えないほどで、旭川刑務所へ不良移送するほどであったといわれている。 

 極道としてその性根を買い、1000人もの配下を引き連れていた倉本組長が、若き織田代表を倉本組若頭補佐に抜擢したほどである。後の三代目倉本組組長となる河内氏は、その時まだ倉本組内三誠会若頭にすぎなかった。  

健竜会若頭補佐のポジションを固辞

 たらればを論ずることは詮無い夢想である。だが織田絆誠代表について、あえてドラマを論じるなら、服役中に倉本組の名称が封印されていなければ、今回の任俠団体山口組の設立、いやそれ以前の六代目山口組の分裂もまた違ったものになっていたのではないだろうかというストーリーが思い浮かんでならない。 

 織田代表が服役中の98年。倉本組長が他界し、六代目体制が発足されるまでの約7年間、倉本組の名称は一旦封印されることとなる。倉本組の正当な後継者が決まらぬまま、その系統は貴広会と倉心会に分かれ受け継がれるのだが、その動向に注目が集まっていた織田代表はどちらにも所属しない道を選んだ。そして、出所後に倉本組の重鎮といわれた人物が織田代表にこう話したのではないかと、ある在阪のフロント(企業舎弟)が当時を振り返る。 

「その親分は織田さんに対して、『倉本組という土俵では狭い。“山健にあらずんば山口組にあらず”と言われた山健組に行ったらどうか』と織田さんに勧められたと聞きました。その親分自体が井上の親分と親交があり、それで当時、健竜会(山健組二次団体)の会長だった井上親分に引き合わせたのではないでしょうか」 

 くしくも井上組長と織田代表は同時期に徳島刑務所に収監されていた間柄。それがやがて縁となる。フロントが続ける。 

「織田さんは、健竜会の若頭補佐という高いポジションで迎えられるはずだったと聞いてます。だけど、織田さんからそれを辞退し、『末席から自分で上っていきます』と話したというのです。後はご承知の通りでしょう」 

 健竜会とは、五代目山口組・渡辺芳則組長が発足させた組織で、二代目会長には、隆盛を極めた三代目山健組組長・桑田兼吉(五代目山口組若頭補佐)が就いた組織だ。言うなれば、山口組における王道中の王道。金看板である。そこから一気に織田代表は、羽ばたき始めることになる。 

 健竜会では、幹部による勉強会が定期的に行われていたのだが、織田代表が講師役を務めた会は今でも語り草になっていると、ある関係者は話す。 

「なんせ人気があった。法の知識はもちろんのこと、戦(いくさ)のやり方など、あの人に『ケンカのことなら自分に言ってこい』と言われたら、一緒になってどこにだって立ち向かっていけると思わせる力があった」 

 また別の関係者は、織田代表を評して、“五代目山口組渡辺組長の親衛隊”といわれた、五代目山口組臥龍会・金澤膺一初代会長や、五代目山口組若頭補佐だった中野会中野太郎会長の再来、と言うほどであった。 

 両親分は五代目渡辺組長の懐刀と呼ばれた人物であるのだが、織田代表も実際に井上親分の懐刀になっていく。しかし当時の四代目健竜会には、実力者で、のちに五代目健竜会会長となる中田広志氏という生え抜きの人物が存在していた。いつの世も社会の表裏を問わず、天は両雄を並び立たせようとはしないのであった。
 

偽装離脱はあり得ない

 六代目山口組分裂数カ月前。両雄がついに手を結び、山健組強化に動き始めたという話が、業界内を駆け巡った。両雄とは、当時共に山健組若頭代行だった織田絆誠代表と五代目健竜会・中田会長のことである。特に織田代表が力を注ぎ込んだのが長野県での勢力確保で、織田代表の懐刀を派遣するなどして山健組強化に努めたのであった。そして、一昨年8月27日、空前絶後の六代目山口組分裂が起こり、すぐさま長野が台風の目として銃声が上がったのだ。 

「戦(いくさ)上手」 

 織田代表を評して、誰もが口にする言葉である。分裂直後に起こった長野での山健組有力団体(神戸山口組)と弘道会有力団体(六代目山口組)との衝突。織田代表は、それを予測していたかのように長野を強化していた。そして、自身の懐刀である山健組有力組織に先手を突かせたのだ。結果、弘道会幹部でもある六代目山口組三次団体のトップが消息を絶ち、それ以外にもさまざまな衝突が繰り返されたが、これで神戸山口組は完全に勢いに乗った。 

 業界関係者の誰しもが、山口組を割るということが不可能であると理解していた。それは歴史を紐解かなくとも明らかであった。全国区の山口組直参の親分衆の中でさえ、体制に不満を持ちつつも、山口組を割って出ることなどできずに、この世界から去った人たちは少なくはない。武力、経済力において隆盛を極めた後藤忠政元組長(元六代目山口組舎弟後藤組組長)でさえ、数々の親分衆から要望を受けながらも、志叶わず、その身を引いているのだ。 

 それらをすべて承知の上で、六代目山口組体制を批判した親分衆らが立ち上がり、絶対といわれる「盃の存在」を超える大義を説き、神戸山口組を築き上げたのが、一昨年以降の「山口組の分裂」である。 

 その現場の最前線で、六代目山口組という巨大な組織に立ち向かい、敵方にさえ「戦上手」と言わしめたのが織田代表であった。その織田代表が心酔し仕えていたのが、神戸山口組井上邦雄組長のはずだった。だからこそ、4月30日に任俠団体山口組が神戸山口組を割って出ても、いまだ警察当局は偽装離脱説を捨てきらないのである。 

 だが、筆者が知り得る限りでいえば、偽装離脱はあり得ない。“芝居”にしては考えられない事件も発生し、逮捕者まで出ていることや、任俠団体山口組がメディアを通じて表明した内容、そして現在の構図……どれを取ってみても、織田絆誠代表が一世一代の芝居を演じているとは考えられないのだ。 

 外から山口組を糺(ただ)して、もう一度組織をひとつにすると考える織田代表と、分裂後、すぐに盤石の体制を築き上げ、六代目体制との合流を考える必要がなくなった神戸山口組との間で方向性の違いが生じてしまったのではないだろうか。その「ズレ」は、やがて井上邦雄組長と織田絆誠代表の間で軋轢へと変節を遂げ、再分裂にまで発展していったと思えてならない。 

名は織田信長から取ったとも

 織田代表の性である「織田」は渡世名である。一説には織田信長の織田から取ったのではないかと言われているが、その真相はわからない。 

 だが、仮にそうであったとしても、織田代表の生き様は天下人にも劣ってはいない。頂点に登りつめる野心と私利私欲は同義語であるかのように思われがちであるが、実はまったく異なる。極道というのは、俠の生き様である。  

 誰しもきれいごとだけで名声を得られるものなら、それを得て暮らしたいはずだ。だが、現実ではそんなことはあり得ない。それがヤクザ社会なのである。 

 神戸山口組が織田絆誠代表を失った影響は少なくないだろう。だからといって神戸山口組、そして四代目山健組には、織田代表に決して劣ることのない一騎当千の実力者が存在する。この先、仮に六代目山口組との対立が激化したとしても、一歩も引くことはないだろうし、虚勢にまわることもないはずだ。それは六代目山口組もまたしかりである。 

 そんな中での再分裂報道は、混沌そのものだ。 

 織田代表は再分裂後、「週刊現代」(講談社)で作家の溝口敦氏のインタビューに答え、同氏はその感想として、「新しい時代の到来を予感させた」と記している。一方、取材力に定評がある「週刊文春」(文藝春秋)では、織田代表が分裂直後、井上組長に「五代目を譲ってほしい」と申し出て一喝された、と書かれている。どちらが本当なのか、筆者などにはとうてい想像もつかない。 

 織田代表の知人は一昨年、ある記者に対して誇らしげにこう話している。 

「織田さんは、同窓会なんかでもみんなの分を支払ってくれていた。それは3次会、4次会になっても変わらない」 

 今回の織田代表の離脱、新組織結成の本当の目的や、それが正しいことなのかどうかは判別つかない。だが、学生時代の同級生や不良グループ仲間にとっては、いつまでたっても織田代表は英雄なのだろう。織田代表に奢られたことが誇りなのだ。それは織田代表の生粋の若い衆にとってもそうなのではないか。そこには、是と非では割り切れない、俠としての魅力と生き様が交錯している。 

 8年前の大阪刑務所。一塁側から帰っていく織田代表は、著者が配役されていた、三塁側に位置する工場の山健組系の懲役囚たちに右手を軽く上げて、グランドを後にした。その姿がいつまでも脳裏に焼きついて離れない。 

(文=沖田臥竜/作家)

沖田臥竜/作家

沖田臥竜/作家

作家。2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、小説やノンフィクションなど多数の作品を発表。小説『ムショぼけ』(小学館)や小説『インフォーマ』(サイゾー文芸部)はドラマ化もされ話題に。最新刊は『インフォーマ2 ヒット・アンド・アウェイ』(同)。調査やコンサルティングを行う企業の経営者の顔を持つ。

Twitter:@pinlkiai

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