すったもんだの挙句、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に橋本聖子前五輪担当大臣(56)が就任した。五輪大臣を辞任し、後任には丸川珠代元五輪大臣(50)が就く。「橋本は大臣、国会議員だから組織委会長への就任は無理」という憶測筋はすべて外れた。
騒動のきっかけは森喜朗前会長の「女性蔑視発言」だったが、森をはばからず「政界に導いてくれた父」と慕う橋本の起用である。しかし、さほどの批判がないのは、彼女の人徳ゆえなのだろう。
1980年代に筆者が北海道に暮らした数年間、スポーツ取材はアイスホッケーが中心だったが、たまにスピードスケートも取材した。ある年、札幌市で行われた「真駒内選抜」の女子500メートル決勝で、最終コーナーでカメラを構えていた。トップで疾走してきた橋本の姿はほれぼれとするほどカッコよかったが、スケート靴を脱いで歩く姿を見て「こんな小さな人だったのか」と驚いた。至近距離を滑る姿はずっと大きく見えたのだ。
スピードスケーターというのは本来、短距離も長距離も強いのが真の王者なのだ。その代表が1980年のレークプラシッド五輪で全5種目を制覇した米国の怪物、エリック・ハイデンである。アルベールビル五輪1500メートルで銅メダルを獲得しただけの橋本はそこまでのレベルではないが、長距離も短距離も強い、日本では稀なオールラウンダーだった。そして日本の女子アスリートでは唯一、五輪出場7回という大記録を持つ。
自転車競技への挑戦
だが、この快挙の陰で泣いた選手がいた。自転車競技の鈴木裕美子である。橋下の出場のうち3回は夏季五輪の自転車だった。
カルガリー五輪が終わった後、橋下はこの年の秋に行われるソウル五輪で自転車競技の日本代表を目指したのである。当時、女子自転車スプリントの第一人者は日本大学出身の鈴木裕美子だった。20歳の橋本より4歳ほど年長だ。
スピードスケーターの大腿筋の発達は並外れたものがある。滑ってみればわかるが、よほど鍛えていないと、あの前傾姿勢を長く続けることはできない。もちろん循環機能も高い。こうした肉体的条件からも、自転車に転向してもある程度やれてしまう基礎体力はあった。
また当時、日本の自転車競技の女子選手はそれほど層が厚いわけでもなかった。そのせいか五輪予選で橋本は次々と勝ち上がり、最後に鈴木と一騎打ちとなった。具体的なことは忘れたが、当時、日本自転車競技連盟が鈴木よりも橋本に肩入れしているような印象を持った。人気者が五輪に出れば話題性からも自転車競技への注目度が高まるからだろう。
筆者は「鈴木がかわいそうじゃないか。橋本はそんなに五輪を欲張らなくてもいいのに」と完全に鈴木に肩入れしてしまい、橋本に対する好感度が薄れていったものだ。結局、一騎打ちは橋本が勝利し、鈴木の手から五輪切符は落ちてしまった。涙した鈴木はその後、スプリントから長距離に転じ、4年後、ロードでバルセロナ五輪に出場を果たしたのだ。立派というしかない。
身近だった「政治家」という存在
橋本はまさに「五輪の申し子」だ。聖子という名は東京五輪(1964年)に感動した父の善吉氏がつけたことはよく知られる。善吉氏は馬主として、北海道の早来町(現安平町)で橋本牧場を成功させていた。筆者も札幌勤務時代、幼い娘を連れてバーベキューを楽しみにこの牧場に行ったものだ。一昨年秋の北海道地震の取材では、懐かしい橋本牧場の看板を見てきた。善吉氏は昨年、96歳で亡くなったが、かなりの借金を抱えたとも報じられている。
橋本の姉の夫は自民党の高橋辰夫氏。衆院議員を5期務めた国会議員だったが、2001年に72歳で亡くなっている。橋本は彼の選挙の時にはウグイス嬢もやっていたそうだ。当時、彼女と親しい女性から「聖子さんと一緒に選挙カーに乗っていた」と聞いた。橋本にとって「政治家」というのはかなり身近にあったのだ。
橋本が組織委会長候補に浮上し始めると、7年前に「週刊文春」(文藝春秋)で報じられた、男性アスリートへのキス強要問題が蒸し返された。“被害者”であるフィギュアスケーターの高橋大輔は「セクハラだとは思っていない」としている。これについて橋本は真摯に反省の意を示しているが、「海外でマイナスになる」という報道も出ている。
いずれにせよ、橋本組織委会長、小池百合子東京都知事、丸川五輪相の体制が整った今、五輪までもう時間はない。「五輪の申し子」の手腕を見守りたい。