離脱情報に対して、「真実味がゼロではなかった可能性があります」と。前述したように、確かな筋からの離脱情報を得ていたからだ。
織田若頭代行は、その後、4月19日に開かれた執行部会にも姿を見せ、離脱情報は闇の中へと消えていったように思われた。だが、織田氏が若頭代行として公の場に姿を見せたのは、これが最後となったのであった。
任侠山口組結成後、異例の記者会見を開催
4月28日、離脱説が再浮上する。山健組内で織田一門と称されてきた、織田若頭代行に近い山健組組員らが、四代目山健組本部からの連絡を絶ったことが判明したのだ。
そして、翌日に開催された四代目山健組定例会を、織田若頭代行を筆頭に約30人が無断欠席。四代目山健組副組長でもあった織田若頭代行は、その任を解かれ、四代目山健組から絶縁されることが決定。これによって事実上、織田若頭代行の神戸山口組からの離脱も決定的となった。
翌30日、神戸山口組は緊急執行部会を開催し、織田若頭代行と、現在は任侠山口組本部長で、当時は若頭補佐を務めていた四代目真鍋組・池田幸治組長を絶縁。
一方、ちょうどその頃、離脱した織田若頭代行らが兵庫県尼崎市に集結。尼崎市に本拠を置く古川組事務所で任侠山口組(結成当初の名称は「任俠団体山口組」)の結成式を開催した。全国から報道関係者が詰めかけるなかで、織田氏を代表とする任俠山口組結成に至るまでの経緯説明を含めた、異例ともいえる記者会見を開いたのだ。
こうして船出した任俠山口組だが、5月入ると早々に事件が起きる。6日、織田代表の関係先の警備にあたっていた任侠山口組系組員が、神戸山口組四代目山健組最高幹部らに暴行を受ける事態が発生したのだ。偶発的なトラブルとはいえ、抗争への発展が懸念されるなか、翌7日には六代目山口組系勢力から初めてとなる任侠山口組への移籍が実現した。大谷榮伸会長を中心に結成された京滋連合が本部長補佐として加入し、その模様をメディアが一斉に報じた。
代表襲撃事件、幹部の離脱、トラック攻撃……
ここから任侠山口組は、一気に直参を増員させていく。6月2日には、刑務所から出所したばかりの二代目植木会・植木亨会長も本部長補佐として参画した。
だが7月に入ると、加入して間もない二代目植木会若頭らが銃撃されるという事件が、福岡県の歓楽街で起きている。
そして8月9日。任俠団体というフレーズが広く世間に浸透し、自分たちは暴力団ではなく任俠団体であるということを認知させる第一段階は達成したとして、組織名称を「任俠団体山口組」から「任侠山口組」へと改名したことが明らかになった。
同月28日。前述したように第2度目となる記者会見で、結成後の記者会見にも増して神戸山口組・井上邦雄組長ら一部の首脳陣を痛烈に批判したのだ。
実はこれでもまだ、著者は偽装離脱説を完全に捨てきれずにいた。任侠山口組が神戸山口組を批判すればするほど、偽装離脱ではないのかと疑いが強まっていたのだ。だが、それは筆者の思い過ごしでしかなかったことが、9月にはっきりとした。