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小笠原泰「日本は大丈夫か?」

日本人へのコロナ対策は「東京五輪の強硬開催」?無事終了なら大きな安心感を獲得

文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授
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東京2020オリンピック競技大会公式ウェブサイトより

 JOC(日本オリンピック委員会)が大いに期待した池江璃花子選手の代表入りでの世論の風向きの変化は起こらず、6月の声を聞き、海外の選手団も来日し始め、日本的組織遺伝子である「なし崩しの既成事実化」のフェーズに入った。公権力を握る人々は戦前と同様に「走っている電車を誰も止めようとしない」ので、もはや後戻りはなく、東京オリンピック・パラリンピックの強硬開催は決定的といえそうである。風を読むマスコミなので、論調も東京オリパラに前向きなものが散見され始めた。

 この東京オリパラとは、なんなのであろうか。次々に掲げられた東京オリパラの旗々はすでにない。当初の「311からの復興」の旗は、被災地の方々からそっぽを向かれ下げざるを得なくなり、招致時に猪瀬直樹・東京都知事(当時)が謳っていた「世界一金のかからない東京五輪」は、蓋を開ければ、都の負担額まで合わせると総額で3兆円を超えることとなり、これまでの五輪で最もお金のかかる大会となるというジョーク状態である。この負担は政治家が自由に使える国の金ではなく、国民負担であることを国民は真剣に考えるべきであろう。最後に取りあえず掲げた泥縄の「人類がコロナとの闘いに打ち勝った証し」は、ワクチン接種の進む欧米であればいざ知らず、ワクチンの接種が遅々とした状態である一方で、医療は崩壊の危機といわれ、緊急事態宣言を延長し、御用専門家にも歯向かわれ、コロナをコントロールができているとはいえない状態では、まったく旗印にはならない。このように、東京五輪の旗はもはやないといえよう。

 一方、五輪精神なる美論(政治を超越するスポーツによる「平和」「夢」「勇気」「団結」「共生」「立ち直る力」など)のメッキは、結局IOC(国際オリンピック委員会)は巨大ビジネスで利権とお金が重要ということを再確認させてくれた「ぼったくり男爵」ことバッハIOC会長のお陰で剥げたといえよう。開催地に手を挙げる国が減っているのも、むべなるかなである。

 今回の東京オリパラでのIOCの専横をみて、開催に手を挙げる国は減るのではないであろうか。今回のIOCの行動は、五輪の将来にとって禍根となるのではないかと筆者は思っている。そもそも先進国入りをする国ではなく、老いゆく先進国でしか行えないオリパラの意味とはなんであるかを考える必要があろう。今さら国威発揚であろうか。

 おまけは、バッハIOC会長の発言は、国家主権を超越するという前代未聞のスピーチである。総理大臣からしてオリパラの決定はIOCの権限といって、主権侵害に近い発言に目をつぶる状態である。日本国の主権も安くなったものである。右派の自民党の政治家の行動とはとても思えない。自民党は国体護持の保守の看板を下げたほうが良いのではないか。

日本人の意見は聞かないIOC

 よくよく見れば、コロナと東京五輪への菅政権の対応は、支離滅裂である。「東京五輪はやります」が、「皆さんコロナは危険ですから、緊急事態宣言は延長します」という矛盾である。五輪ができるならそれほど危険ではないと考えるのが、普通の人間である。ゆえに通勤電車等を見ればわかるが、人の移動量はむしろ増えていそうである。事実、宣言延長も形式的で、ほとんど実効性がなくなりつつある。

 その一方で、ビジネス規制では、居酒屋など飲食店の時短営業、昼夜での酒類販売禁止という、効果もわからず検証もされないことをやるのは、「やってる感」政治というマスコミ主導大衆民主制度の末期症状である。軽薄に『8時だョ!全員集合』をもじって悦に入る現東京都知事は、この点に関しては長けているといえそうである。胴元のIOCはといえば、東京五輪開催に関しては、開催地の日本人の意見は聞かないといっている。

 この2つの対応を、五輪を招致し、国産ワクチンができるから1年延長で大丈夫と自信を示した、日本の面子が国民の命より大事と考える政権政党の政治家を筆頭とする関係者は思慮が浅い。一方、IOCにとって東洋の端にある開催地の日本の国民がどうなろうが知ったことではなく、重要なのは、犠牲を払ってでもオリンピックを中止しないで開催することであるという、IOC幹部の傲慢な本音ととらえることもできないではない。しかし、筆者は、日本サイドもIOCサイドもそこまで傲慢であるとは思えない。

 自民党の政治家は知らないが、厚労省の役人もIOCの幹部も、事実としての数字は見ているはずである。日本人のように感情を前提には考えていないはずである。

すでに決まっていたシナリオ

 この観点で、日本のコロナの状況を考えてみよう。コロナ感染が始まって以来の死者数の累計は、1万4000人に満たない。死者の多かったイギリスと同様の死者数を日本に置き換えると、25万人を超える。もし日本で現在25万人が亡くなっていれば、社会の雰囲気は大分違うのではないか。

 また、2020年の超過死亡数は、約1万人のマイナスである。要は、コロナ対策で普通は死ぬはずの1万人の命を救ったわけである。これは、世界に誇れることであろう。余談だが、興味のある方は、コロナ対策費用を1万人で割り、一人当たりの救命費用を算出されると良いかと思う。つまり、日本の状況は、数値的には悲惨な状況ではないという認識であろう。その表れが、辞任した高橋洋一内閣官房参与の「屁みたいなもの」ツイートであろうし、厚労省の役人がコロナ渦中で、大人数で飲み会に行った問題であろう。IOC幹部の認識も同様であろうと思われる。そうであるとすれば、政府とIOCでタッグを組んだ東京オリパラの強硬開催は、すでに決まっていたシナリオであったと考えることができる。

 考えられるリスクは、政府の対応が正しかったから死亡者が少ないわけではなく、単なる運なのでコロナのコントロールはできていないという点である。インドなどの変異株次第では、開催前に陽性者数が急速に増える可能性はあろう。事実、まだ相対的には安全とはいえ、ワクチン接種の大幅な遅れも含めて、コロナのコントロールができていないことで徐々に「COVIDレジリエンス(耐性)ランキング」を落とし、最新では7位から14位に後退している。

安心感の獲得に理屈はいらない

 これから、本稿の核心に入りたいと思う。日本の社会は事実や数字ではなく、庶民感情などの感情が支配する社会である。この社会では、「安心」は重要なキーワードである。事実、菅首相は「選手や大会関係者の感染対策をしっかり講じ、安心して参加できるようにするとともに、国民の命と健康を守っていく。これが開催にあたっての私の基本的な考え方」とオウムのように繰り返すが、そこでのキーワードは「安心」である。

 日本人は安全と安心を併記するが、その違いをおそらくわかっていない。わかっていれば、併記はできないであろう。それでは、安全と安心とは何かを考えてみよう。まず、「安全」とは、リスクを対象として取り上げ、そのリスクを最小化して客観的にリスクと受益の軽重を判断して、そのレベルのリスクであれば受け入れるということを意味する。リスクがないことはないので、100%安全はあり得ない。安全を求めれば、リスクを見つけ、それを最小化しようするから考えるわけである。

 一方、「安心」は、リスクを対象化することなく、主観的にリスクがないと判断できる状態を求める、つまり、基本的にはリスクをとるのではなく、リスクを回避することを意味する。ゆえに安心のなかでは、100%安全はあり得る。神社のお祓いと同じメカニズムなので目の前にリスクがないと思えれば安心なので、自粛警察のような行動が頻出するわけである。しかし、リスクはなくなるわけではないので、安心であれば安全であるわけではない。安全の観点からは、マスクはどこでもしていることに意味があるわけではないが、安心の観点からは、マスクをどこでもし、皆もしていれば安心するのである。マスクをしていれば安全なわけではないのだが、安心は、科学的根拠は意味をなさない感情の世界である。安全感とは言わず安全性と言い、安心性とはいわず安心感という理由がここにある。安心を求めると、リスクは排除するだけなので、考えることをしない。

 ゆえに「リスク・テイクの安全」と「リスク排除の安心」を併記することは言葉の意味への感度が高ければ、ありえないくらい気持ちの悪いことである。しかし、安全と安心の併記は日常茶飯事なので、多くの日本人の言葉の意味への感度は極めて低いといえよう。

 このような安心教の信徒である日本人にコロナの安心感を与えるにはどうすればよいのであろうか。数字や事実の積み上げはあまり意味をなさない。ワクチンはその一つの方法かもしれないが、ワクチン恐怖症を植え付けられた日本人にどれだけ安心を与えるかは疑問である。そもそも接種にあまりにも時間がかかりすぎるのではないか。コロナはインフルエンザ同様に消えてなくなることはなく、コロナと同居することになるので、一巡すること頃には3回目の接種が始まるのではないだろうか。終わることのない堂々巡りである。

 筆者はひそかに、今回の東京オリパラ強行突破開催が、大きな混乱もなく、現状の死者数増加率を維持して終了するのであれば、国民はオリンピックが大きな問題もなくできたのだから、コロナは大丈夫なんじゃないかと安心するのではないかと思っている。日本人選手のメダルラッシュという一過性の盛り上がりよりも、この安心感の獲得のほうが重要であると考える。安心感の獲得に理屈はいらないので、いっきに不安から安心に振れることは十分にあり得るのではないかと考えている。

 政治家がこれを想定して、強硬開催にまい進していると思えない。自民党の政治家を含む日本の為政者たちは、今回の東京オリパラを歴史に残したい(自分たちの名も教科書に残る)だけではなく、実は歴史上に汚点を残す夏季五輪の二度の中止(戦時下の1940年の東京)は是が非でも避けたいのかもしれない。1964年の栄光の東京オリンピックのノスタルジーに浸る世代である彼らにとっては、ありえなくもない話である。良い意味でも悪い意味でも、今回の東京五輪は、この世代へのレクイエムになるのであろう。いや、そうならないと日本の将来はなさそうである。

 今回の東京オリパラの強硬開催は、政治家の丁半博打なので、国民として、裏目に出た時には、故半藤一利氏が昭和史の最大の教訓として指摘した「(やるまでの)根拠なき自己過信と(まずくいったときの)底知れぬ無責任」を決め込む政治家たちに直面する覚悟をしておく必要があろう。
(文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授)

小笠原泰/明治大学国際日本学部教授

小笠原泰/明治大学国際日本学部教授

1957年生まれ。東京大学卒、シカゴ大学国際政治経済学・経営学修士。McKinsey&Co.、Volkswagen本社、Cargill本社、同オランダ、イギリス法人勤務を経てNTTデータ研究所へ。同社パートナーを経て2009年より現職。主著に『CNC ネットワーク革命』『日本的改革の探求』『なんとなく日本人』、共著に『日本型イノベーションのすすめ』『2050 老人大国の現実』など。
明治大学 小笠原 泰 OGASAWARA Yasushi

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