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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

ナチスドイツと太平洋戦争下の日本政府、「音楽」を国民の扇動に利用

文=篠崎靖男/指揮者

戦争に利用された音楽

 ところで、作曲家のフランツ・リストの作品に、「前奏曲」という有名な名曲があります。随分前になりますが、フランクフルト放送交響楽団と録音の仕事があり、3曲録音予定でしたが、その3曲目が「前奏曲」でした。フランクフルト放送としては、これまであまり録音をしたことがない曲を録りたいというのが本音ですが、古今東西の名曲はほとんど録音されてしまっており、たった3曲を決めるだけで、うんざりするくらい時間がかかりました。

 しかしなぜか、そのなかでも名曲中の名曲である「前奏曲」だけは、最初に提案した段階で、不自然なくらいすんなり決まりました。残念ながら、時間が足りなくなり、結局「前奏曲」は録音できなかったのですが、その後、オーケストラの楽員と話していて、どうしてすんなり決まったのかがよくわかりました。実は、「前奏曲」は、ナチスがラジオを通して大本営発表する時に必ず流していた曲らしく、今でもドイツ人は、この曲を聴くとナチスを連想してしまうので、あまり演奏されないとのことでした。

 このようなトラウマは、ユダヤ人側にはもっと深く残っています。ヒトラーがドイツ精神の理想としていたワーグナーの音楽は、特にワーグナー自身が晩年ユダヤ人批判をした事実もあり、ナチスにはうってつけの作曲家であり、効果的に利用されていました。

 そしてもうひとりは、当時のドイツを代表する作曲家であるリヒャルト・シュトラウスです。彼は実際に、ナチスの帝国音楽院総裁の地位についていたこともあり、協力関係にありました。そのため、ユダヤ人国家のイスラエルでワーグナーとシュトラウスの音楽を演奏すると今もなお、政治的論争を起こしてしまうことがあるのです。シュトラウスに関しては、彼の息子の嫁がユダヤ系だったので、家族を守るためにやむなくということがありました。彼らの音楽の純粋な素晴らしさには関係ないだけに、残念で悲しく思います。

 さて皆さん、同じ景色を見ながら、2つの両極端な音楽を聴いてみてください。景色の印象がまったく変わってしまいます。それほどまでに音楽は、五感の中では特殊である聴覚に直接訴えます。目をつぶっても、鼻をつまんでも、対象物から距離を開けて触れないようにしても、音だけは耳からすべて入ってきて、直接脳に作用してしまいます。つまり、逃れるのが困難で、人々をコントロールするために悪用しやすいのです。

 1941年12月8日の日米開戦時には、軍艦マーチがラジオから繰り返し流されたそうです。日本海で、日本の軍艦が大国ロシアのバルチック艦隊を打ち破り、日露戦争を勝利したことで日本人は不敗神話を信じ始めましたが、その英雄でもある“軍艦”という名前のマーチは、日本人にとって、大国アメリカ相手でも勝てるはずだと信じ込ませるには十分だったと思います。

 これからは、そのような音楽の使い方はしてほしくないと強く思います。人種、国境、性別、宗教、身分の垣根を越え、人と人の心をひとつにするのが音楽の本当の力なのです。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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