国内の米軍基地の約7割がある沖縄の扱いについて、「差別的だ」と答えた人は、沖縄で70%に上った(「差別的ではない」は17%)。一方、全国でも「差別的だ」は53%と過半数に達した(同30%)。また、沖縄以外の人たちの58%が、自分の住む都道府県に米軍基地が移設されることには「反対」と答えている。
確かに、沖縄の負担は差別的なまでに過重だと思う。負担は平等に、という翁長知事の主張は筋が通っていて反論ができない。かといって、自分たちの近くに米軍基地が移って来ても困る。それで、私たち本土の人々は、沖縄には申し訳ないけれども、基地は今まで通り沖縄に引き受けていただくことを「現実的」ととらえ、自分の中の負い目をごまかしてきたのかもしれない。
「沖縄の視線」というタイトルの報道写真がある。昨年6月、沖縄県糸満市の平和祈念公園で行われた沖縄全戦没者追悼式で、献花に向かう安倍晋三首相を、翁長知事と子供を含む出席者が、厳しい視線で見つめる様子を東京新聞のカメラマンが捉えたもので、昨年の東京写真記者協会の最優秀賞に選ばれた。
確かに、問答無用、力ずくで辺野古新基地建設をずんずん進める安倍政権の手法は、これまでの歴代政権とは際立っている。とはいえ、それを支え、許してきているのは、国民にほかならない。
今年2月2日の衆議院予算委員会で安倍首相は、沖縄の基地の負担軽減について問われ、「(辺野古新基地以外の案は)日米間の調整が難航したり、移設先となる本土の理解が得られないなど、さまざまな事情でなかなか目に見える成果が出なかった」と述べ、「本土の理解」に言及した。
カメラが捉えた、射るような「沖縄の視線」は、安倍首相ひとりにではなく、私たち「本土」の人々にも向けられているのだと思う。日本政府が沖縄に過重な負担を強いるのは、何も普天間基地移設に関してだけではない。
東西冷戦下、米軍が沖縄に1300発の核兵器を配備し、大惨事一歩手前の誤射事故も発生していた。1969年に佐藤栄作首相とニクソン米大統領の間で、沖縄を「核抜き・本土並み」で返還することが合意・発表されたが、その裏で「重大な緊急事態」には再び沖縄に核兵器を持ち込む密約がかわされていた。
その核密約に関わったメルヴィン・レアード元米国防長官は、『NHKスペシャル スクープドキュメント 沖縄と核』(昨年9月放送)のインタビューに対し、次のように答えている。
「核を沖縄に持ち込まないのなら、ほかの場所を探さなければならない。結局、彼ら(日本政府)は沖縄を選んだ。それが日本政府の立場だった」
沖縄でなくてもいい、どこか核兵器を持ち込める別の場所を提供してほしい--。そう米政府から求められ、日本政府は沖縄を差し出した、ということなのだろう。
すでにある米軍基地。かつてあった核兵器。それをほかの地域に負担させるより、沖縄に負担させたほうが「現実的」という政治的判断が働いたに違いない。
さらに遡れば、本土のために沖縄が過重な負担を強いられたという点で、太平洋戦争末期の沖縄戦も同じ構図だ。本土決戦のための時間稼ぎに、沖縄が“捨て石”にされたのだから。その結果、県民の4人に1人が死亡した。
この戦いの記憶は、世代を超えて伝えられている。