統合失調症の発病初期に多い「動機なき殺人」
もちろん、被害者意識が人一倍強く、逆恨みしただけという見方もできるだろう。家庭の事情で多感な思春期を施設で過ごさなければならなかったうえ、進学したくても経済的な理由で就職しなければならず、18歳で自立して家族のサポートなしにやっていかなければならない境遇では、「自分だけが苦労している」という思いを抱くのは当然だ。さらに、不安と孤独感もあいまって、被害者意が募っても不思議ではない。
ただ、精神科医としての長年の臨床経験から申し上げると、田原容疑者の供述した「恨み」を被害者意識が強いということだけで説明するのは難しい。むしろ、妄想的確信にもとづいて犯行に及んだと考えるべきだ。妄想とは、現実離れしたことでも、本人が真実だと確信していて、訂正不能な思考内容である。
それでは、なぜ被害妄想を抱いていたのかという話になるが、まず考えられるのは統合失調症を発病していた可能性である。10代後半から20代前半は統合失調症の好発期だ。そのうえ、仕事が長続きせず職場を転々としていた不安定な生活が発病を後押ししたかもしれない。さらに、昨年12月に住み込みで働いていた会社の寮を突然立ち去ってからはネットカフェなどで寝泊まりしていたらしいが、こういう環境では睡眠が十分とれないはずで、それが病状を悪化させた可能性もある。
統合失調症の発病初期に、他人には到底理解しがたい動機から遂行される「動機なき殺人(meurtre immotivé)」が起こりやすいことは、フランスの精神科医、ジロー・Pらが報告している。私自身、統合失調症の発病初期に母親に悪魔が憑いているという妄想を抱いて母親を殺害し、措置入院していた20代の男性患者を主治医として担当したこともある。
この患者は、事件を起こすまで精神科を受診していなかった。田原容疑者も、精神科受診歴がなさそうだが、もし周囲の誰かが精神変調に気づき、精神科で診察と治療を受けさせていたら、今回の凶行を防ぐことができたかもしれない。
もっとも、田原容疑者には自分が心の病気であるという自覚(病識)はなかったはずだ。また、家族と一緒に暮らしていたわけではないので、赤の他人が精神科に連れて行くのは難しかっただろう。
周囲が精神変調に気づき、精神科受診につなげるのはとても重要であると同時に、非常に難しい問題だ。精神科医をはじめとして、精神医療に携わる者が力を合わせて取り組んでいかなければならない。そのためには、社会の理解が不可欠である。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
Guiraud, P., Cailleux, B. : Le meurtre immotivé, réaction libératrice de la maladie, chez les hébéphréniques. Annales Médico-Psychologiques. 1928;12 ( 2 ):352-360.
Guiraud, P. : Les meurtres immmotivés. L’évolution psychiatrique. 1931 mars;2:24-34.