こうした傾向が最も顕著に認められるのが、横溝正史の小説『八つ墓村』のモデルになった「津山三十人殺し」の都井睦雄である。都井は、姉にあてた遺書に「不治と思われる結核を病み大きな恥辱を受けて、加うるに近隣の冷酷圧迫に泣き遂に生きて行く希望を失ってしまいました」「かほどまでにつらくあたる近隣の者」などと書きしるしている。
しかし、生き残った村の者たちは、彼の肺病は、自分で思い込んでいたほどひどくはなく、そのために格別彼を避けたり差別したりしたことはなかったと証言している。したがって、当時の岡山地方裁判所塩田末平検事が指摘しているように、「自己の肺患並びに周囲の圧迫を実相以上に重く感じ、ほとんど妄想の程度に進んでいる」と考えざるをえない。
このように、軽度の被害念慮から確固たる被害妄想に至るまで、その程度はさまざまだが、妄想観念は無差別殺人犯に、かなりの割合で見出される。これは、次の2つの理由によると考えられる。
(1)「やられたのだから、やり返してもいい」と攻撃を正当化
(2)過去の体験を絶えず反芻して怒りと恨みを増幅
まず、他人や周囲の世界を、悪意を持って自分を迫害する対象としてとらえる傾向が強いせいで、危険が差し迫っているという不合理な恐怖を抱きやすい。無差別殺人の原因となる中心的な感情は、燃えたぎる怒りであり、そのための復讐として犯行に及ぶのだが、この怒りは、他人が自分を迫害している、あるいは不当に扱っているという妄想観念によってかき立てられることが多い。
しかも、被害的に受け止める傾向が強いと、「やられたのだから、やり返してもいい」という理論で自らの攻撃を正当化しやすい。なかには、他人を殺害する正当な権利が自分にはあるはずと思い込んでいる犯人もいて、犯行後も反省や改悛の情を示さない。
また、妄想的な人間は、長年にわたって、屈辱や侮辱を受けた過去の体験を絶えず反芻し、思い出しては憤慨するので、慢性的な怒りと恨みを抱き続ける。さらに、本人が「破滅的な喪失」と受け止めるような失職の脅威、経済的損失、離婚や別離などの喪失体験に遭遇すると、それまで積み重ねられていた屈辱感と怒りは、無差別殺人に凝縮される。