改憲叶って「粛清の国」に逆戻り?
「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」
3年ほど前の2019年9月5日、ウラジオストックでの日露首脳会談で、当時の安倍晋三首相がロシア(ロシア連邦)のウラジーミル・プーチン大統領に対し、発出した言葉だ。当時の報道では、ロシアとの北方領土返還交渉を含む、日露平和条約の妥結を念頭に置いた発言だと解説されていた。だが、実際は現在に至るまで、何の妥結にも解決にも至っていない。
筆者はウラジーミル・プーチン(69歳)でもアベ・シンゾウ(67歳)でもないので、彼らが夢想していた「同じ未来」がどんな世界なのかは知らない。ただ、その「同じ未来」が平和条約の妥結や領土問題の解決ではなく、ともに自国の憲法改正だったとしたら――と夢想して、背筋に悪寒が走った。
ウラジーミル君はその翌年の2020年7月、自らの権力をさらに強固なものにするロシア連邦憲法の改正を成し遂げていた。選挙の結果次第ではあるものの、最長で16年後の2036年まで彼が大統領の座にとどまることが可能になったのだという。満期まで勤め上げれば、ウラジーミル君は満83歳になっている。
一方のシンゾウ君は、日本国憲法99条が定める憲法尊重擁護の義務をあからさまに果たさず、改憲の夢を公然と語りながらも改憲できず、体調不良を理由に首相の職を辞任。ウラジーミル君の改憲実現からほんの2カ月後の、2020年9月16日のことだった。
そして、その1年半後の2022年2月24日、ウラジーミル君率いるロシア軍は隣国ウクライナに兵を進め、これは戦争ではなく「特別軍事作戦」なのだと言い訳しながら、侵略戦争を開始した。開戦直後の3月4日には、侵略戦争に反対するロシア国民を取り締まる刑法改正(偽情報流布防止法。別名「裏切り者処罰法」)を実施。自身に批判的なジャーナリストや報道機関、政敵を徹底的に弾圧し、ロシア連邦憲法が定める思想や言論の自由、集会の自由といった自国民の権利を次々と制限・剥奪していった。ロシアには、憲法よりも上位にある法律があるらしい。日本人が義務教育で教わる「違憲立法審査権」はロシアに存在しないのだろうか。
ともあれ今のロシアでは、「戦争」と口にすれば逮捕される危険すらある。ウラジーミル君によって、ウクライナへの侵略戦争は「戦争」ではなく、あくまでも「特別軍事作戦だ」ということにされているからだ。プーチン政権批判やロシア軍批判、ウクライナ侵略戦争批判はもちろんご法度。人前で「侵略戦争反対」などと言おうものなら密告され、職を失ったり、逮捕・収監されたり、行方不明になったりする。
ロシアは今、権力に反対する者を排除する「粛清」(しゅくせい)が普通で当たり前のことだった30~40年前の旧ソビエト連邦時代と大差ない国へと逆戻りしつつある。その結果、ロシア連邦大統領であるウラジーミル君の敵は、ウクライナの反ロシア勢力やNATO陣営、アメリカ合衆国だけでなく、当のロシア国民の中にもいる。
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筆者が気になったのは、侵略戦争の開戦直前にあったロシア連邦憲法の改正(改憲)である。果たして、この改憲とウクライナへの侵略戦争には関係があるのか。改憲したことで他国との戦争がやりやすくなったのか。検証してみた。
改憲は人気浮揚策であり国威発揚策
日本における改憲では、憲法の定めにより国民投票の実施が不可欠である。しかし2020年に実施されたロシアの改憲の場合、国民投票は必要なかった。そうした定めがないからであり、日本のロシア研究者の間でも、不必要なはずの改憲国民投票をなぜ実施したのかは「謎」だとされている。年金政策の失敗や新型コロナウイルス感染症への対応、経済の低迷などによって支持率の低下に喘いでいたプーチン政権が、自らの人気浮揚策として改憲と国民投票を利用した――という見方もあるようだ。
思想や言論の自由、集会の自由を定めた条文は、改正憲法にもしっかり存在している。最低賃金の保障や、年金改革といった社会保障の充実を図る内容まで盛り込まれており、この点だけ見れば、国民にとって大変耳障りのいい改憲案であろう。ただ、国民投票はそうした改憲案について一つひとつを尋ねていく形ではなく、改正案のすべてを一括して問う「オール・オア・ナッシング」形式で実施されていた。
一方、国民にとって必ずしも耳障りのいいものではない改憲案には、次のようなものがあった。
(1)大統領の任期延長と権限強化
2018年の大統領選挙で再任されたプーチン大統領の任期は2024年まで。しかし改憲により、最長で2036年まで(あと2期12年間)大統領の座にとどまることが可能になった。もちろん、次の大統領選の結果次第ではあるが、旧憲法では大統領の任期(1期6年間)は連続2期までに制限されていた。腐敗や独裁を防ぐための知恵だと思われる。
改憲案が浮上した当初は、大統領権限を弱め、議会の権限を拡大するための改憲だと語られていた。しかし途中で話が変わり、実際は大統領が新たに首相の解任権や主要大臣の任免権まで手に入れる。結局改憲で、大統領の権限は強化された。こうして“プーチン独裁”への地ならしは進んでいた。
(2)「愛国主義」の登場
「子どもの愛国心」や「祖国防衛者の追悼」といった、愛国主義的な価値観を前面に押し出した憲法へと変容した。ウラジーミル君にとって、この価値観の正反対にあるのが「非国民」であり「裏切り者」なのだろう。
(3)国威発揚のための“陣地取り”
改憲案には、外国への領土割譲を禁止する条文も盛り込まれた。ただ、元朝日新聞編集委員兼論説委員の国分高史氏の論考によれば、この条文には「隣国との範囲の画定、国境画定および再画定をのぞく」との但し書きがついていたのだという。
なるほどこの但し書きがないと、2014年にロシアがウクライナから一方的に併合したクリミア半島のように、今後ロシアが領土を増やしていくことができなくなる。但し書きを額面どおりに読むならば、日本と平和条約を結ぶ際に北方領土を取引材料に使いたい場合、この例外規定は不可欠だろう。
ところで筆者は小学生の頃、いわゆる「陣地取り」ゲームが大好きだった。大勢の子どもが二手に分かれ、互いに自分の陣地を広げつつ、相手の大将を生け捕りにするとゲームセット――という遊びだ。皆で日が暮れるまで夢中になったものだ。ロシアが隣国ウクライナに対して行なっている「クリミア半島併合」や「キーウ侵攻」も、この遊びと本質的に大差はない。大きく異なっているところは、子どもの遊びでは「相手を殺さない」ことだ。「クリミア半島併合」までは、ロシアもそうだった。
ロシアにとって2014年の「クリミア半島併合」は、国威発揚と政権浮揚を図るための“陣地取り”だった。ただ、その次が見つからなかったのである。そして8年後の2022年2月、クリミア半島に続く国威宣揚(国家の威光を示すこと)の証しを求めて、ロシアはウクライナ全土に踏み込んだ。しかし、今回ばかりはなかなか思惑どおりにいっていないようである。
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これまではなかった文言を、あえて憲法に書き込むことで、トラブルの端緒になったり、揉め事の火種となって燻ぶり続けたりするのだろう。ロシアの改正憲法には他にも、同性婚を禁止する条文や、国連や欧州人権裁判所などの国際組織が決定したことや国際法よりもロシア連邦憲法が優先するといった条文が、新たに書き加えられている。「戦争」以外のところでも懸念は尽きない。
反面教師としての「ロシア改憲」
「全ロシア投票」と名付けられた改憲国民投票は、改正案のすべてを一括して問う形で実施されていた。もし、日本で改憲が問われる場合も、どうせ似たような形になるのだろう。そしてロシアでは、新型コロナウイルス感染症の流行が収まらない中であるにもかかわらず、約78%もの賛成で改憲案が承認されていた。
改憲騒動を間近に控えている私たち日本人として、特に反面教師として意識すべき点は、基本的人権である思想や言論の自由、集会の自由などを定めた条文があるにもかかわらず、完全に空手形となっていることだ。
2020年7月の改憲以前から、国内反体制派の政治家(反プーチン勢力)や報道機関に対するプーチン政権の弾圧は熾烈を極めていたが、ウクライナへの軍事侵攻以降はさらに過酷になり、政権や軍を批判する自由な報道は禁止され、活動停止に追い込まれる報道機関が続出。軍事侵攻に反対する市民のデモは治安当局により、殴る蹴るといった力任せの暴力で弾圧されている。その法的根拠とされる前掲の「偽情報流布防止法」(裏切り者処罰法)は、1925年の日本で共産主義者を取り締まるために制定され、太平洋戦争を目前に控えた 1941年には、国家の方針に従わないという理由で「非国民」を弾圧する法的根拠にもなった「治安維持法」(1945年の太平洋戦争敗戦で廃止)を想起させる。ロシア国民にしてみれば、自国の憲法に安心しきっているうちに騙されたのと大差ない。
憲法とは概ねの場合、その国の国家権力や政治権力を縛り、独りよがりな暴走や、国民への圧政を戒めるためのものである。しかし、全然そうではない国もある――ということを決して忘れずに、自国の改憲騒動に臨みたいと思う。
検証の結論は、その国の国民にとって、憲法の条文は弄らないほうが無難である――ということになりそうだ。
(文=明石昇二郎/ルポライター)