謹賀新年。
今年は卯年、十二支の四番目に当たる。この「卯」とはウサギを指すが、もともとは同じ形の物を左右対称に置いて、等価値の物と交換する意味を表す象形文字であり、貿易の「貿」の字の原字であったという。相場格言に「卯跳ねる」とあり、文字通り相場が大きく飛躍する年であるとされているが、果たして。
また、今年の干支は「癸卯」となる。本来「干支」とは「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十干と「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の十二支を組み合わせたものである。同じ「干支」は六十年に一度巡ってくることになり、六十歳を「還暦」と称するのは生まれた干支が再び巡ってくるためである。
さて、それでは「癸卯」とはどのような年になるのであろうか。例によって、過去の歴史からその傾向を探って、本年の動きを占ってみよう。
「武」の胎動、火山の噴火が頻発
まず、我が国における「武」の胎動が見られる年である。康平6年(1063年)、源頼義が鎌倉に鶴岡八幡宮を創建している。八幡は武神であり今も広く尊崇を集めており、今年の初詣に行く予定の方もおられるのではあるまいか。
また、保安4年(1123年)には、捉えられた悪僧の解放を求める強訴を行うべく、入京を図った延暦寺の僧兵らを平忠盛・源為義が武力をもって阻止するという事件が起きている。この忠盛の子が清盛であり、彼もまた海賊討伐などの武功により昇進、また保元・平治の乱を勝ち抜き、太政大臣まで上り詰めることになる。
清盛の死後、平氏が京より追われたのも「癸卯」の年、寿永2年(1183年)のことである。倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破った源義仲が、その余勢を駆って上洛を果たした。これに伴い、平氏は安徳天皇と共に西国に落ち延び、二度と京に戻ることはなかった。またこの年には、源頼朝に対して「寿永二年十月宣旨」と呼ばれる宣旨がもたらされている。これは頼朝による東国の支配を公認するものであり、この時をもって鎌倉幕府の成立とする研究者も存在する。
幕府と言えば徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開いたとされる慶長8年(1603年)もまた「癸卯」の年であり、この後、大坂夏の陣・冬の陣を経て「元和偃武」と言われる太平の世が訪れることになるが、「寿永二年十月宣旨」の時と同様、まだこの時点では天下の形勢は定まったとは言い難い状況である。よもやこの時代になって軍事政権が誕生するということは考え難いが、我が国を取り巻く環境変化に対応すべく戦争準備が行われる中で、専門的に「武」に携わる人々の発言力が高まりを見せるようになるかもしれない。
また、時代を少し戻るが、天文12年(1543年)には日本の「武」のあり方を一変させるテクノロジーがもたらされている。鉄砲伝来である。優れた製鉄技術を持っていた中世の日本人は、この銃の製法をたちまちに我が物とし、その技術は黒潮に乗って畿内、関東へと広がっていった。一方で鉄砲を発射するに必要な黒色火薬は硝石・木炭・硫黄を主原料とするが、この硝石は日本では天然に産出されないため、当初は輸入に頼らざるを得なかった。
しかし、地中で硝酸アンモニウムを生成させる「土硝法」の普及により、この問題もクリアしたのである。後の木炭はいわずもがな、硫黄は火山国である日本においては各地域で手に入れることができ、かくして黒色火薬が盛んに作られたのであった。あるいは海外からもたらされた何らかの軍事技術が「武」の高まりの中で導入され、広く普及するかもしれない。
ところで火山国と言えば、「癸卯」の年は火山の噴火による災害の多い年であるようだ。寛文3年(1663年)には有珠山が噴火、天明3年(1783年)にも岩木山ならびに浅間山が噴火した。成層圏にまで達する火山噴出物は日照を遮り、深刻な冷害をもたらした。また広範囲の降灰も農作物に打撃を与え、近世最大の飢饉と呼ばれる天明の大飢饉を招来するに至る。
また同年、アイスランドのラキ火山が噴火、これも同様に欧州に異常気象をもたらし、これに伴う食糧不足はフランス革命の遠因の一つとされている。昭和38年(1963年)にはインドネシアのアグン山が噴火、世界的な温度低下をもたらした。火山の噴火は溶岩や噴石、また火砕流などによる直接的な被害の他に、大きなものは、このように異常気象を引き起こすことになる。特に農産物は深刻な打撃を受けるため、食糧不足へとつながっていくのである。世界有数の穀倉地帯であるウクライナが戦場となっている今、さらに世界規模で食料供給がダメージを受けることになれば、食料自給率の低い我が国は厳しい局面に立たされるかもしれない。
「電気」「医療」で朗報か
最後に明るい話を。「電気」にまつわる事柄で朗報があるかもしれない。明治36年(1903年)、大阪市に市電が開業した。これは日本初の市電となる。電化が軌道に乗るのは大正時代を待たねばならないが、すでに明治末頃からは始まりつつあった。
また同年、東京の浅草に「電気館」も開業。これは日本初の常設映画館であり、「電気館」の名前は各地の映画館においても使用されていく。この時代、「電気」という言葉はハイカラで文明的な香りのする言葉として好んで使われた。同じ浅草を発祥とするカクテル「電気ブラン」も、この伝で付けられたものだ。
また、昭和38年(1963年)には関西電力の黒部川第四発電所が完成。映画『黒部の太陽』で有名なこの発電所は、折からの電力不足を補うために作られたものである。
また、医療上の新たな成果が見られる可能性がある。貞治2年(1363年)、フランスの外科医であるギー・ド・ショーリアックが『大外科書』を著した。ローマ教皇の侍医であった彼は『ガレノスの医学書』など古典を参考としつつ、中世における外科の手法を記述したその本は各国の言葉に翻訳され、多くの医師と患者の助けとなった。
天文12年(1543年)にはアンドレアス・ヴェサリウスが『人体の構造』発表。詳細で複雑な解剖図を擁する同書は以後も解剖学における古典の一つとされ、この功績により、彼は神聖ローマ皇帝・カール五世の侍医となっている。いささか外科寄りではあるが、あるいはこの分野で革新的な技法が生み出されるのかもしれない。
さて、歴史から「癸卯」の年を占ってみたが、いかがであっただろうか。兎と言えば想起されるのは、その長い耳である。これで周囲の音を聞き、我が身を守る。ゆえに戦国時代においては、兜に兎の耳を象った前立や脇立に付ける者があった。
また「狡兎三窟」という言葉がある。「玉子は一つのザルに盛るな」と同じで、複数のオプションを持っておくのが大切であるという意味である。兎に学び、今年もしぶとく生きていきたいものだ。当たるも八卦当たらぬも八卦、読者諸氏においてキボウと発展の年となる一助となれば何よりである。