いや、欧州危機が根本的に収まったとはいえず、03年までは5年ごとのショック、その後は4年後、5年後と2度ショックが起きるパターンに入った可能性はあります。デリバティブ(金融派生商品)というバーチャルなマネーが、コントロールしづらくなるほど膨張してしまったからでしょう。
相場って、どんな時代でも欲望の塊である人間のやることですから、まったく同じことは繰り返さないまでも、同じようなことを繰り返しています。程度の差はあるにしても、バブルが起き、バブルが崩壊する繰り返しと言い換えてもいいでしょう。今後も繰り返していくはずです。
さて、僕が入った昭和57年当時の証券界に戻りましょう。
当時はまだまだバクチ場というか、鉄火場の雰囲気が色濃く残っていましたね。
僕自身、証券専門紙記者になったのですから、マスコミ界に入った意識が強かったんですが、先輩の記者の多くが、マスコミというか新聞記者には見えなかった……。
どう見ても取材に行っているように見えない先輩が多い。机の下に潜って電話している先輩も多い(あとで分かりましたが、同僚に儲かりそうな情報を聞かれたくない。もしくは、証券会社に株式売買の注文をしていた可能性もあります)。
スーツ姿ではなく、いつもジャンパーのおじさんルックの先輩のズボンのポケットから、100万円の束が見えたときは「何じゃ、これは!」と絶句しました。先輩に聞くと、「競馬で儲けたんだぜ」なんて言っていましたが、その後、その先輩が会社を辞めたあと、「本当は、あれは相場で儲けたんだ。数億円は稼いだな」と言っていました(笑)。
広報部なんてなかった上場企業
今の証券マスコミはマスコミ志望で入ってくる人たちばかりで、そんなお行儀が悪い人はいないですが、僕の前の世代には、株で儲けるために証券紙に入ったという猛者がたくさんいたんですね。
上場企業も適当でした。
取材しようにも広報体制が整っている上場企業はひと握りの国際的優良企業程度しかなく、取材を申し込もうにも広報部はないので、総務部に電話すると「そんなこといっても、お金が目当てなんでしょ。お金は出しませんよ」なんていうところも多かった。なんのことかなと思ったら、広告取りか、もしくは、総会屋か、それに近い者と間違えられていたんですね(笑)。
各社、広報体制が整うのは、それから数年先、80年代半ばのバブルが本格的に膨らむ頃からです。さらに個人投資家向け情報発信のIR部署が一般的になったのは、ITの普及した00年以降ですね。
でも、当時は適当だったけどおおらかなのんびりした時代だったし、オイルショックを先進国で最初に乗り越えたという自信にも満ちあふれていましたね。
さて、今回の宿題。