ジュディマリ、GLAY…伝説の音楽P、故・佐久間正英は、なぜ絶大な信頼を得たのか?
大学卒業後、四人囃子の二代目ベーシストとしてプロミュージシャンのキャリアを開始した氏は、78年にプラスチックスに参加、そして翌年にはプロデュース業を開始する。わずか27歳のころだった。
「今からしてみれば“若いな”と思えるかもしれないけど、その時代は周りもみんな若かった」(「JUNON」<前出>)
ようで、試行錯誤の連続だった。
「ひたすらいろいろな音楽を聴き、ひたすら自力だけで問題を解決して行くしかなかった時代」(『直伝指導! 実力派プレイヤーへの指標』<リットーミュージック/2013年>)
という。しかし、この時代の経験こそが、その後の氏をかたちづくった。いつしか依頼の絶えないプロデューサーになっていく。
●音楽プロデューサー心得
今回、佐久間さんのインタビューを読み返して気づくのは、アーティストの黒子へ徹する一貫性と、あまりにも強烈なプロ意識だった。
「アーティスト本人たちが“やりたい”と望んでいることと現実に“やっていること”とのギャップを埋めてあげる作業」であり、「自分自身のカラーは極力出さないようにしています」と繰り返し述べていた。それは、ミュージシャンの近田春夫さんが「佐久間はいつもお手伝いっぽいのだ。(中略)あくまで本人(達)の力の足りぬ部分だけをフォローし、思想的には一切関係を持たぬ」(「週刊文春」<文藝春秋/97年7月3日号>)といわせるほど徹底したものだった。佐久間さんは、信条として良い音楽だけを創るという一点のみを追求し続けていた。
考えるに、アーティストの実力を最大限に引き出して、かつ音源という商品を創りだすためには、アーティストが氏に絶対の信頼を置いている必要がある。
「僕がOK出したら、みんなが納得する存在でないとだめ。若者たちが“このおっさん、ただ者じゃないな”と思えば、それだけでレコーディングがスムーズに進みますから」(「an・an」<マガジンハウス/97年2月7日号>)
と述べているように、プロデュースしたアーティストからは絶賛の声を多く読んだ。リズムの1000分の1を聴き分け、何分の一秒のズレを排するさまは圧倒だったという。また佐久間さんは楽器のプレイヤーとしてもアーティストたちを指導しつづけた。理想の音を実現するためだった。
「例えばベースが『もっと太い音が出したい、それにふさわしいものに楽器を持ち替えたい』と言ったとする。しかし、その希望を実現するのに重要なのは道具ではなく、ピックの当て方だったりするんです」(「an・an」<2000年4月21日号>)
というとおり、レコーディングの前には、アーティストにドラムの皮の張り方、スティックの選び方、ギターやベース弦の硬さやピックの持ち方を細かにアドバイスしていた。
「今の若いミュージシャンは、見かけがどんなであれ、ものすごく真面目です。ミュージシャンになるには地道な練習が必要ですから。真面目でなかった人は結局続いていないんです」(「女性自身」<前出>)
「どんな細かい音でも拾っちゃうわけだから、ごまかしがきかない。だからその意味では、CDというのはライブよりずっとリアルだと思いますよ」(「宝島」<宝島社/91年5月24日号>)
また、若いアーティストはお金を持たず良い楽器を持っていないと嘆き、しかし嘆くだけではなく楽器を自作しアーティストに売った。
さらに、バンドのメンタル面もケアしていった。有名なところでは、JUDY AND MARY、エレファントカシマシ等のバンドは佐久間さんがセラピスト的な役割を果たし、バンドを、そして音楽スタイルを構築していった。