一方で、加害者家族自身も、周囲から何かを言われなくても、身内が起こしてしまったことに対する責任を感じているわけです。そして、これからどのようにして生きていけばいいのかというような辛い気持ちになる。事件が大きければ大きいほど、背負うものも大きいのではないかと思います。まさに加害者の家族の“生き地獄”が始まるわけです。
–加害者家族の実態に関する取材を開始した当初、情報はかなり少なかったようですね。
鈴木 ええ。もちろん地域の民間グループが加害者家族支援のためのフォーラムを開催するというようなことはあったのですが、加害者家族と正面から向き合って、その状況について本格的かつ継続的に調査したものはほとんどありませんでした。ワールドオープンハートは、そういう意味では、初めての本格的な支援組織です。
–なぜ情報が少ないのでしょうか。
鈴木 被害に遭われた方のことを考えると、加害者側の人間は、苦しいとか悲しいとか、そういうことを訴えられるような立場ではない、自分たちが発言していいはずがない、自分たちの発言によって被害者家族の怒りが増幅するのではないか、という思いに駆られているからではないでしょうか。多くの加害者家族は、身内が事件を起こしてしまったという事実にうちひしがれ、自責の念にさいなまれています。笑うことはもちろん、泣くことも許されない。だから、頑なに取材を拒んでいる、それが現実だと思います。
●冤罪でも実際の犯罪者と同じくらいの影響
–冤罪でも同じで、「それで人生が終わる」とも書かれています。
鈴木 『それでも僕はやっていない』(東宝)という映画がありました。主人公は冤罪である痴漢で容疑者になったことで会社にいられなくなり、家族も疑心暗鬼になって、それまでに築いてきたものがすべてぐちゃぐちゃになってしまう。実際、ある建材会社の経営者が強制わいせつ罪で告訴された事件では、事件を契機に売り上げが激減し、逮捕されてから3年後に、それが冤罪だったと確定したときには、すでに会社は倒産に追い込まれていました。
一度容疑者になってしまうと、事件の大小とは関係なく、その時点でその人の人生は崩壊してしまうといっても過言ではありません。そして、冤罪であろうとなかろうと、身内が容疑者になってしまった場合、その家族には犯罪者の家族とまったく同じことが起きるわけです。冤罪の場合は、周りの人が冤罪だと信じてくれればそうならないケースもあるとは思いますけれども、構図としてはまったく一緒だと思いますね。
–インターネットの普及も、加害者家族への嫌がらせを助長している面もあるのでしょうか?
鈴木 事件が大きければ大きいほど、地域の中だけに情報がとどまらずに、全国に広がります。そうすると、実はあの人は加害者の親戚だというような噂が広がったり、職場でも話題になることもあります。そして、こうした嫌がらせを加速させているのが、インターネットの普及です。事件が起きると、加害者本人だけでなく、加害者家族の自宅や勤務先など個人情報までもが暴露されてしまう。その結果、家だけでなく、家族の職場にもいたずら電話や嫌がらせの手紙が来るようになる。ありとあらゆるものがおしなべて起こるという感じです。
でも中には、同情する人たち、理解を示す人たちもいますし、事件の性格や重大さにもよりますが、今まで通りの付き合いをしてくれる人もいます。
–そうした加害者家族が置かれる厳しい現実というのは、日本特有のものなでしょうか?
鈴木 海外にも加害者家族をサポートする団体があるので、家族がサポートを必要としているという問題は同じだと思います。ただ、日本の場合は、犯罪を個人の責任としてとらえるのではなくて、家単位で責任とらせるというか、家意識のようなものが強く残っているので、家族へのプレッシャーも大きいのではないかと考える専門家は多いですね。また、逆にそういう意識が強いことが、犯罪の抑止力、つまり悪いことをしたら家族にも迷惑がかかるからと、犯罪実行を思いとどまらせることにつながっているのではないかとの見方もあります。
–加害者家族が苦しい状況に追い込まれる原因として、メディアの加熱報道を挙げる人もいます。