織田信長(「Wikipedia」より/Gryffindor)
ただ、その人数は、信長自身が京都や各地の前線にいた重臣ら宛の手紙に誇張して書いたもので、将兵たちの奮起を促し、大殺戮の噂を流して敵を脅えさせる心理的な意図がある。そのため、かなり割り引かなければならない。
その一方で信長は、関ヶ原にいた貧しく家のない人々を保護したばかりか、降伏してきた者たちを寛容に扱い、家臣に取り立てている。
信長の優しさは、特に女性に対して深いものがあった。
信長が最初に結婚したのは、美濃の斎藤道三の娘、帰蝶(きちょう、お濃)である。政略結婚であるが、その生活は不明である。ただ、道三が死ぬと離別しているが、これは信長の意向というよりは、帰蝶の意志であったようだ。道三が亡くなると、帰蝶は道三の菩提を弔うために菩提寺に父の肖像を寄進している。その後、母親の実家となる明智一族のもとにいっている。
ちなみに帰蝶と明智光秀とは従兄弟であることから、光秀が信長の家臣になる時、なんらかの口添えがあったのか。あるいは光秀が信長への謀反を決めたことに影響があったとの見方もある。ただし、これらは推測にすぎない。
その後、帰蝶は京都で余生を過ごし、信長と光秀の死を間近に看取り、豊臣秀吉が天下を治めたのを見て没したようである。このように帰蝶が自由に生きたのも、信長の配慮があったからといえよう。
女性に優しかった信長
信長は戦略がからまない限りにおいて、女性には優しく、残忍な性格であったということはできない。
信長は何人かの女性と関係して子供どもをもうけている。中条という侍女との間には乙殿(おつどの)という男子をもうけ、原田(塙)直政の妹に信正を産ませている。
信長が一番愛したのは、帰蝶と離別する前から関係があった吉野(きつの・吉乃)である。吉野は、土豪で商人の生駒家長の妹であった。生駒家には、蜂須賀小六や前野長康ら木曽川沿いの野武士たちが出入りしており、秀吉もそこで信長に認められた家臣になったようである。
信長は美濃を攻める拠点として造った小牧山城に吉野を正室として迎えた。吉野は、信忠、信雄(のぶかつ)、五徳(ごとく・徳姫)の3人を立て続けに産んでいたが、五徳を産んでからは病床につくことが多くなった。信長は、医師をつけ、薬湯を取り寄せるなどの優しい心配りをしていたが、とうとう回復することはなかった。