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片山修のずだぶくろトップインタビュー 第13回 鍛治舍巧氏(岐阜県立岐阜商業高等学校野球部監督)

2万人リストラに涙をのんだ元パナソニック役員、甲子園出場の野球監督転身で第二の人生

文=片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家

2万人リストラに涙をのんだ元パナソニック役員、甲子園出場の野球監督転身で第二の人生の画像3

片山 鍛治舍さんは、松下電器入社後も阪神タイガースにドラフト2位で指名されましたね。そこまで熱心な誘いがあったのに、プロを選ばなかった理由はなんだったんですか。

鍛治舍 野球だけではなくて、何か可能性を残しておきたいという思いがありました。それと、大学3年生の夏に、父が職場で脊椎損傷の事故に遭いまして、もって10年といわれたんです。その父が、「自分がいなくなった後、お前が路頭に迷っていると困るなあ」といったことがあって、それが重かったですね。

サラリーマンと野球の両立

片山 松下に入社後は選手を7年間された後、仕事に7年間専念した。選手時代にも、練習後には会社に戻って仕事をされていたそうですね。その後、今度は監督を5年間。その間、NHKの甲子園解説もしていましたね。ずっと野球がついて回る。

鍛治舍 NHKの解説は、34歳のときから足掛け25年間やりました。

片山 出勤扱いだったと聞きましたが。

鍛治舍 そうなんですよ、だから、出演料は会社の収入になっちゃう(笑)。

片山 社会人野球の道を選んだときから、仕事と野球の「二兎を追う」と決心されていたんだね。松下では、人事部門が長かったですよね。

鍛治舍 29年間、人事部門にいましたね。採用部長と労政部長をやりました。採用部長としては、世界を回りましたね。ハーバード大学のオンキャンパスでリクルーティングをしたんです。説明会をして、面談もしました。彼らは2~3年しか会社に在籍しなかったんですが、そんな会社は世界になかったんじゃないですか。

片山 えッ、そうなんですか。

鍛治舍 当時、毎年3、4人は入っていました。

片山 外国人ですか。

鍛治舍 そう。彼らとは、いまだに親交があります。たとえば一人は、米国の司法省にいる。東京でファンド会社を経営している人もいる。とにかく、採用は「人気ランキングを上げろ」とか、「ソニーに負けるな」という「攻め」ですから得意です。だけど、「守り」はからっきし弱いんですよ。

片山 そうですか。守りといえば、2000年以降の中村邦夫社長時代、リストラがありましたね。

鍛治舍 松下電器初の全社一斉の早期退職優遇制度です。国内中心に2万6000人の早期退職をやりました。そのときの労政部長が私です。

片山 そりゃぁ大変だったでしょう。経営者のインタビューで、いちばん辛いこと、大変なことは何かと聞くと、人員調整だとおっしゃる。恨まれ役にならなきゃいけない。

鍛治舍 私も自分が嫌いになりましたよ。内ポケットにつねに退職願を入れていました。すべて終わったとき、当時の村山敦副社長に提出したら、「お前、ええかっこすんな! お前が辞めたら事業場の人事部長はどうするんだ! 全員辞めなきゃいけないのか!」といって怒られましてね。「こんなもの受け取れない!」と、目の前でびりびり破られました。村山さん流の愛情表現に、涙がポロポロ出ましたよ。

片山 ウーン、わかります。大変でしたね。

鍛治舍 この早期退職のときには、週刊誌に「幸之助神話の崩壊」「家族主義の崩壊」と書き立てられた。それがようやく落ち着いたと思ったら、今度は企業年金改革をやることになった。「もうやめましょうよ」といいましたよ(苦笑)。

片山 パナソニックは、大企業の企業年金改革の先陣を切りましたからね。幸之助さんが創設した「福祉年金」の制度は、退職金の一部に年率10%近くを上乗せして支給していた。バブル崩壊後の時代には合わなかったんですね。

鍛治舍 当時複利7.5%の企業年金は、市中金利と大きく乖離していて、現役の利率を大幅引き下げしたことに伴い、OB、OGの皆さまにも応分の負担(年率2%引き下げ)をお願いしようということになりました。社会的にも必要な措置と考えましたが、訴訟にもなり大変でしたね。OB会めぐりで、北海道から九州まで1年間に2往復しました。

片山 当時社長の中村さんも叩かれましたね。

鍛治舍 それはもう、叩かれましたよね。でも、毎週「今週は、『週刊○○』に出ます」などと報告にいくと、中村さんは決まって「これは私がやっていますから」というんです。その言葉に、救われていましたね。

片山 その間も、春夏の甲子園の間はNHKの解説でしょう。

鍛治舍 それは、上層部の理解があったからなんですね。会長と社長の許可を得て役員会を欠席したことも何度かあります。常務になって2年目に、2度会議を欠席して、さすがにここまでと思って、10年の夏の甲子園決勝戦を最後にNHK解説を降板しました。

片山 パナソニックには40年間いらっしゃったわけですが、いちばん印象深かったことはなんですか。

鍛治舍 一つは先ほどの早期退職優遇制度ですよね。もう一つは、05年のナショナルFF式石油温風ヒーターのリコールです。人事部門のあと、03年に広報部門に移ったんですが、05年11月に原因は特定されていませんが死亡事故が起きました。

片山 ああ、覚えています。取材していましたから。当時、松下のテレビCMは全部、お詫びと告知の広告になりましたよね。あの広告の「松下電器からのお報せです」という女性の声が、いまも耳に残っています。それから、日本中の全家庭・事業所にハガキを送った。あの事故は不祥事対応のお手本事例として、いまや多くの企業が勉強します。

鍛治舍 当時は、年末商戦の真っただ中です。テレビCMを全部、お詫びと告知に変えるなんて「とんでもない」という声も社内にあった。でも、会議がそういう雰囲気になりかけたとき、家電担当の企画部長がぽつりと「それでいいんですか」と、いったんです。その一言で、みんなハッと我に返って、これでは駄目だ、やはりすべてお詫びと告知にすべきだ、となりました。その後の常務会でも、少なからず反対意見もあったようですが、中村さんは「全員に反対されても私はやります」といい切ったと聞きました。

片山 あのとき、大ゲサな話ではなく、社員全員が街頭に出て、問題の暖房機の回収のビラを配りましたよね。

鍛治舍 そうです。あのときも、社員は松下はどうなるか……と危機感を持ちましたからね。

片山 鍛治舍さんは、06年に役員、08年に常務、12年に専務になりました。数々の大変な経験をされましたが、充実したサラリーマン人生だったんじゃないですか。14年4月に退かれましたが、辞める決断は、どのようにされたんですか。

鍛治舍 現社長の津賀一宏さんは5つ年下ですが、常務時代を一緒に過ごした仲間です。彼は12年に社長になって、若返りを図ろうとしていた。辞めるならいましかないと思いました。

片山 そうか、もともと野球の監督をやりたいと思っていたわけですよね。

鍛治舍 はい。役員になったときはあきらめかけましたけどね。13年の8月には、津賀社長に辞意を伝えました。

人生100年時代の第二の人生

片山 パナソニック時代、鍛治舍さんは「次の夢は甲子園で胴上げされることだ」とおっしゃった。うらやましい人だなと思った記憶があります。指導者としては、パナソニック野球部のほかに、少年野球ボーイズリーグでオール枚方ボーイズの監督を務め、03年と05年の2度、世界一を達成していますね。

鍛治舍 そうですね。国際大会は14勝0敗です。

片山 ボーイズリーグの監督は、ボランティアでしょう。毎週、土日は枚方ボーイズに完全に捧げていたわけですよね。それも、何十年でしたか。子供だからといって半端な付き合い方ではなかったですからね。

鍛治舍 ええ。都合よくグランドが山の中にあって、電話が通じないんですよ(笑)。だからできたんですよ。

片山 パナソニックの広報部長をしながら、少年野球のチームを世界一にしてしまう。信じられないですよ。

鍛治舍 人生、二兎を追えば二兎を得ることもあるということでしょうかね。一生懸命やればね。

片山 野球とは、もう一生離れられないですね。

鍛治舍 野球はもう、人生そのものですから。

片山 では改めて、14年に熊本の秀岳館高校の監督に就任した経緯を教えてください。

鍛治舍 じつはこのとき、当時の岐商の校長先生にも、「母校で教えませんか」と声をかけていただきました。でも私は、無名もしくは甲子園から長く離れている高校にいって、甲子園で優勝させたかったんです。これぞロマンだと。そのとき、その条件に適う秀岳館からお話がきたので、選びました。

01年、初めて秀岳館が夏の甲子園に出場したとき、私は解説をしたんです。いいチームだなと思いました。以後、枚方ボーイズの選手を毎年、秀岳館に送り込んでいました。

片山 結局、4年間やられて甲子園は4回出場、ベスト4が3回。振り返って、いかがですか。

鍛治舍 「日本一」発言は、私が地域のことをよく知らずに自分の理想を語ったので、心配りが足りなかったと思っています。

片山 枚方ボーイズからの選手が多かったことも反発を買いましたね。

鍛治舍 枚方ボーイズからきた選手も、親御さんが熊本出身とか九州出身とか、ゆかりのある選手がほとんどだったんですよ。言い訳は一切しませんでしたけどね。1年目はとくに総スカンでした。「鍛治舍、大阪へ帰れ」とか、「大阪第二代表」とか、選手までいわれるでしょう。第二の故郷にすると覚悟を決めてきた選手を、野次られるのは忍びなかったですね。甲子園4季連続出場、3季連続ベスト4という実績もあって、最後には地域のみなさんに応援していただけるようになりました。

片山 秀岳館の監督としては、悔いはありませんか。

鍛治舍 いや、勝てなかったですね……。ベスト4が3回ですからね……。

片山 甲子園で「胴上げ」の夢には、岐商で再挑戦ですね。この経緯を教えてください。

鍛治舍 一昨年の12月に、岐商のOBから電話がありました。「私はまだ秀岳館の監督です」とお答えしましたが、それが始まりでした。昨年の12月にも同じことがありましたが、決めていたわけではなかったんです。ただ、その段階でスポーツ新聞の記者さんが書いてしまったんですよ。結局、岐商に決めたんですが、20校以上の大学・高校からお誘いがありました。あれは新聞辞令でしたね。

片山 しかし、今年67歳になられます。これから母校で教えて、まだ夢を追いかけるというのは、素晴らしい人生だと私は思うんですが、いかがですか。

鍛治舍 高齢化社会を迎えて、健康寿命はどんどん延び、時代は「エイジレス」です。そのなかで、支えられる側よりも、ずっと支える側でいたいという思いはあります。母校の後輩たちと喜怒哀楽を共にするなかで、将来、超高齢化社会を支えていく彼らを、強く、たくましく育成していくことは、われわれの役割だと思っています。やりがいを感じますね。

片山 鍛治舍さんのような“人生二毛作型”の生き方は、サラリーマンにとって、もううらやましい限りだと思います。今回また、『そこそこやるか、そこまでやるか』(毎日新聞出版刊)まで出版されたでしょう。第二の人生を充実させる秘訣はどこにありますか。在社中には、よく「40代から準備しろ」とかいわれていたそうですが。

鍛治舍 若いころから部下にいってきたのは、「会社人間になるな」「軸足を会社の中と外に置きなさい」ということです。難しい話じゃありません。例えば、土日には社章を外して、社内の人とは一切付き合わず地域の人と交流を深める。ゴルフにいくとかね。

 少年野球に関わって良かったのは、関係者に個人事業主が多いんです。話していると、今年は税金をいくら納めるだとか、必要経費がどうのとか、仕事を辞めたとか、大企業にいてはわからないことを話している。その世界を知っていたから、私も、大きな組織を抜けても家族と食べていくくらいは大丈夫だろうと、自信が持てたんです。

片山 大企業と従業員の関係は、かつてとは変わりつつあります。終身雇用制は崩れ、高度経済成長期のように、従業員が一つの会社に忠誠を誓って勤め続ける時代ではなくなった。企業側も、従業員を守り抜くことは難しくなっている。

鍛治舍 いまや、滅私奉公したら戦力になるという時代ではありませんからね。逆に、外のことがわかる人間の方が役立つケースが多いんです。一社、一国だけで解決する問題より、たくさんの企業のなかで、グローバルに解決しなければいけないことが多い。自分のいる組織の内だけでなく、外が見えないと、人生も会社も、豊かにはなりません。

スポーツの力は国力に通じる

片山 平昌冬季五輪・パラリンピックを見ていて、やはりスポーツの力は大きいなと感じました。メダルラッシュで日本全体が元気になりましたよね。

鍛治舍 そうです。スポーツの力は国力とイコールですよ。障壁を突破していく力は、国力と相通じます。とくに冬のスポーツはタイムに挑む種目がたくさんあるので、それを突破していく力は、自分の夢に向かってがんばる人を鼓舞し活力を生む。やはり国の推進力に共通するものがありますね。

片山 一方で、五輪で活躍した選手やプロ野球選手が引退後どうするのかは、一つの課題です。

鍛治舍 その問題は、IOC(国際オリンピック委員会)も悩んでいます。私は経団連のスポーツ推進委員会で、彼らのセカンドキャリアの応援を進めていました。経団連加盟企業・団体は計1500くらいありますから、1社1人採ってくれれば1500人を生かせます。スポーツに秀でた人材は、特殊な能力があります。それをいかに社会に生かしていくかが課題です。経団連が、その一端を担ってくれればいいと思っています。

【鍛治舍さんの素顔】

片山 好きな食べ物は何ですか。

鍛治舍 カレーライスです。選手にも大盛りカレーライスを食べさせますよ。

片山 ストレス解消法は?

鍛治舍 読書です。本や雑誌など何でも読みます。『三国志』だけは何十回も読み返していますね。

片山 いってみたい場所、再訪したい場所はありますか。

鍛治舍 むろん、甲子園です。

片山 「経営」とは何でしょうか。

鍛治舍 人生としてとらえれば「生涯をかけて自分を磨く、修養の道」。それが経営だと思います。

(文=片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家)

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片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家

片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家

愛知県名古屋市生まれ。2001年~2011年までの10年間、学習院女子大学客員教授を務める。企業経営論の日本の第一人者。主要月刊誌『中央公論』『文藝春秋』『Voice』『潮』などのほか、『週刊エコノミスト』『SAPIO』『THE21』など多数の雑誌に論文を執筆。経済、経営、政治など幅広いテーマを手掛ける。『ソニーの法則』(小学館文庫)20万部、『トヨタの方式』(同)は8万部のベストセラー。著書は60冊を超える。中国語、韓国語への翻訳書多数。

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