生き方に悩んでいる人は、なんの悩みもなさそうな人を羨ましく思うかもしれない。悩みがちな人は、どうしてもそんな自分を否定してしまいがちだ。そして、悩みグセのある自分から脱したいと願う。
だが、ここでちょっと考えてみてほしい。悩みグセのない自分ってどんな感じだろうか。もしその悩みグセを失ったら、あなたの人生の深みまで失われてしまうかもしれないのだ。
悩みとは無縁の人に漂う「薄っぺらさ」
私は心理学者として勤務先の学生だけでなく一般の人たちのカウンセリングも行ってきた。そうした活動を通して感じるのは、何も悩むことのないお気楽な人よりも、生き方に悩む人のほうが、味わい深い人生を歩んでいるのかもしれないということだ。むしろ悩みとは無縁の人のほうに思慮の浅い薄っぺらさを感じることも少なくない。
多くの人は、悩みを抱えて苦しんでいる人の悩みを取り除くのがカウンセリングの目的だと思っているはずだ。でも、カウンセリングにとって大事なことは、それだけではない。
もちろん、悩み苦しむ人の心をサポートするのがカウンセリングとして重要であり、本人が悩みを解消したり困難を乗り越えたりするのを手助けすることが大事なのは間違いない。だが、周囲を見回してみると、何も悩むことなどなさそうな人よりも、常に自分の生き方に疑問をもってなんらかの悩みと格闘している人のほうが、どこか人間的な深みがあるといった感じはないだろうか。
ただし、悩み方の問題もある。悩み上手な人もいれば、悩み下手な人もいる。体調を崩したり、やる気を失い投げやりになったりしてしまうようなのは悪い悩み方といえる。悩みながらも、「このままじゃダメだ」「もっとなんとかしないと」というように、前向きにあがいている姿勢が感じられる場合、そうした悩み方はけっして悪いものではない。そこには自分の生活を向上させようといった強い意志が感じられる。
悩むのも悪くない
自分の仕事人生に意味が感じられず、むなしさに包まれ、急にやる気が失せてしまったという40代の男性は、その苦しい思いを次のように語った。
「私は、けっこうがんばり屋なほうだと思います。でも、いくらがんばってもうまくいったことがないんです。高校受験でも大学受験でもそうでした。必死に受験勉強をしたのに、結局志望校には合格しませんでした。就活もそうです。要求水準を徐々に下げて、ようやく引っかかったっていう感じです。就職してからも、けっしていい加減にやっているわけではないのに、同期に差をつけられてばかりです。もうがんばるのがバカらしくて……」
そのようにこれまでを振り返って嘆きながらも、「でも、そんな投げやりな自分も嫌いで……。いったいどうしたらいいのか、悩んでしまいます」と前向きの姿勢も示しながら、心の中の葛藤を口にした。
これまで誠実な仕事をしてきたのに報われず、すべてが嫌になったという30代後半の男性は、納得いかない思いについて、次のように語った。
「僕はバカ正直というか、不器用というか、調子よく振る舞うのが苦手なのですが、上司の前で調子よく振る舞い、裏で上司を軽んじるようなことを言う人物が上司から評価される。なんだかなあ、って思います」
「そういう連中は、上司だけでなく仲間に対しても不誠実で、仲間の手柄を奪うようなことも平気でする。仲間にバレバレなのに、悪びれずに上司に手柄をアピールするようなことを言う。そんな連中が上から高く評価されるんですよ。もうバカらしくて、まじめに仕事する気になれませんよ」
こう憤りつつも、
「だからといって、あんな連中と同じようなことをして張り合う気にもなれないし、そんなみっともない姿をさらしたくないし……。この先どうしたらいいんだろうって、このところ堂々巡りの自問自答をしている状態です」
と揺れ動く胸の内を明かす。
世俗的な意味での成功を基準にした場合は、この2人はけっして成功者とはいえない。仕事生活に行き詰まっていると言うべきだろう。だが、そうした世俗的なモノサシを基準にして生きていないことに誇りをもっているからこそ、どう生きるべきか悩んでしまうわけである。
私自身、似たような葛藤を抱えているとき、次のような言葉を記して自分を勇気づけたものだった。
「自己の探求、それは過去経験に対して納得のいく意味を与えることだ」
「『これでいいんだろうか?』と思い悩むとき、すでに前向きの一歩を踏み出している」
「むなしさに押し潰されそうな思い、それは『より良く生きたい気持ち』のあらわれだ」
「『こんな自分はイヤだ』と自己嫌悪する、それは向上心が強い証拠だ」
こんなふうに考えれば、悩むのも悪くないと思えてくる。
悩むことで人生を意味あるものにできる
そこで参考になるのが、第2次世界大戦中にアウシュビッツの強制収容所に収容されながらも生き延びることができた精神医学者であり心理学者でもあるヴィクトール・フランクルの言葉である。フランクルの次のような言葉は、カウンセリングを学んでいた頃の私にとって非常に刺激的だったが、今でも深く考えさせられる重さをもって迫ってくる。
「わたしたちは患者に安らぎを与えなかった。形而上学的軽率という見せかけの安らぎを与えなかった。また患者が自分の実存の意味を見出して、自分自身に立ちかえらないかぎり、わたしたちは患者が安らぐのを許さなかった」(フランクル 真行寺功訳『苦悩の存在論』新泉社 以下、同書)
「人間をその病気から外へ引き出すことはすでに問題ではない。問題なのは、むしろ患者をその人のありのままの事実へと導くことである」
「このあるがままの事実のために、患者をおどして、かれの形而上学的軽率から追い出さなければならない。しかも一つの危険へ向けて、つまり少なくとも一時的に緊張が高まり、苦しみに満ちた体験が生じるという危険に向けて駆りたてなければならない。(中略)とうにわたしたちは、古典的な心理療法が立ってきたところには立っていない。人間を単に働くことができるようにし、またそれ以上に享受できるようにするという点に、心理療法の課題をわたしたちはもはや見ていない。少なくとも同じ程度に人間を苦しむことのできるものにしなければならない」
自分の日常に対して疑問をもたずに、安穏として、「見せかけの安らぎ」に甘んじている人に働きかけ、悩む存在へと追い込むことも大切だというのである。
悩んでいる人の方が健康なのかもしれない
悩み苦しんでいる人からすれば、なんの悩みもなく、呑気に暮らしている人は羨ましいだろうが、自分の現状に疑問を抱くことなく、安易な安らぎに甘んじていることこそ不健康なのだと思えば、気持ちが楽になるはずだ。悩んでいる自分のほうが健康だということになるわけだから。
悩み苦しむことはストレスになり、心身共にきつい。だから、気分転換したり、気晴らしをしたりして、ストレス反応を軽減することも必要だ。でも、気分転換や気晴らしによってストレス反応をいくら軽減したところで、苦悩から解放されるわけではない。悩み苦しむことで、私たちは成長し、成熟していく。人間は苦悩する存在である。苦悩するというのは、まさに生きている証でもある。そう考えることで、前向きに苦悩することができるようになるはずだ。
こうしてわかるのは、悩むことこそ人生においてとても大事なのだということである。簡単に解決することばかりだとしたら、人生はどんなに印象が薄く、味気ないものになるだろうか。人生には多少の摩擦が必要だ。それが「思い切り、生きている」といった実感につながる。
人生に挫折はつきものである。思い通りにならないことだらけといってよいだろう。そこで人は悩む。それによって心は鍛えられ、印象深い人生の軌跡が刻まれていく。
悩み苦しむことで視界は開け、人生の段階がレベルアップしていく。悩めば悩むほど思索は深まり、味わい深い人間になっていく。そう思えば、気持ちがラクになるだろう。悩みつつ楽しむ。それが味わい深い人生にするためのコツなのではないか。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)
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