世の中には思わぬかたちで、志が達せられることがある。だが、たとえその志が達せられなくとも、認めてほしい相手に認めてもらえることは、人にとっての幸せなのかもしれない。逆に、志が達せられたとしても、認めてほしい相手に認めてもらえなければ、はたして、それは幸せといえるのか、少なからず疑問である――。
今から84年前の1936年2月26日、世にいう「二・二六事件」で決起した陸軍の青年将校たちと日本のその後の歩みを見るにつけ、そう思わずにはいられない。
この青年将校たちがひとまず目指したのは、財閥解体と農地や農民の解放だ。この頃、不況により国民、とりわけ自らの農地を持たない小作農の生活は窮乏を極めた。
その一方で巨大資本を持つ財閥が肥え太り、政治に目を向ければ、内閣による経済面への失政も重なっていた。また、政界と財閥との癒着で汚職事件が相次いだことから、国民の政治不信はピークに達していく。
そうした状況下、二・二六事件に連座した青年将校らは、天皇による直接政治、すなわち「天皇親政」が実現されれば、窮乏による塗炭の苦しみに喘ぐ国民を救えると考えた。
やや雑な物言いだが、青年将校たちにとって、不況やそれに伴う国民の苦しみも、すべての元凶は政治家であり、それと癒着する財界だった。天皇に近い政治家や財界が、天皇に国民の現状をきちんと上げていない、天皇が国民の現状を知れば、きっと国民を救ってくれるはず――、そう考え、決起した。だが、結果は4日間で鎮圧され、逮捕。その年のうちに銃殺刑となる。
その青年将校らが銃殺刑となってから、およそ10年後、彼らが目指した政策のうち、「財閥解体」「農地・農民の解放」が、意外なかたちで実現する。太平洋戦争の敗戦に伴い、アメリカをはじめとする連合国軍(GHQ)による占領だ。GHQによる占領政策の目玉は、まさしく二・二六の青年将校が目指した「財閥解体」と「農地解放」だった。
マッカーサーは学会的には「諸天善神」
そのGHQの最高司令官はダグラス・マッカーサーだ。マッカーサー率いるGHQは、日本占領にあたり、ともすれば軍国主義的とみられていた日本の国柄を変えるべく、徹底した民主化政策を推し進めた。そのなかにひとつに「信教の自由」がある。
こうした一連の動きについて、創価学会第2代会長・戸田城聖氏は、「マッカーサーは諸天善神(法華経の信者を守る善神)」だとし、彼が進める一連の政策を支持したという。
創価学会は、1930年に教育者・牧口常三郎氏を初代会長とする「創価教育学会」を前身として発足するも、太平洋戦争中の一時、その活動が停滞、休眠状態に陥っていた。これを戦後に創価学会と名を改め、今日よく知られる組織を築く鍬入れを行ったのが戸田氏だ。
その戸田氏の弟子が池田大作氏である。60年に第3代会長に就いた池田氏は、その驚異的な組織化によって、学会を“日本宗教界のガリバー”と呼ばれるほどの巨大組織へと育てあげた。いわば「学会の中興の祖」だ。以来、会長は第4代・北条浩、第5代・秋谷栄之助の各氏、そして現在、第6代・原田稔氏へとそのバトンを引き継いでいる。
この歴代会長のうち、第3代以前と第4代以降では、会長職の位置づけがまるで違う。
第3代までの会員たちは自分たちのことを、それぞれ「牧口先生の弟子」「戸田先生の弟子」などと、誇りを持って称している。会長と会員は師匠と弟子であって、ここに会員たちは強い自覚と誇りを持っていた。だが、こうした関係は、第3代・池田氏の代までだ。その池田氏は、会長を退いても名誉会長・SGI(創価学会インタナショナル)会長として学会組織に君臨、会員の精神的支柱となった。
創価王国の“天皇”・池田大作名誉会長
第4代・北条氏、第5代・秋谷氏、第6代・原田氏まで、各代の会長自身が「池田先生の弟子」と位置づけている。これらの会長たちは、組織のライン職から退いた名誉会長の池田氏を「先生」と呼び、自らを会員たちに「秋谷先生」「原田先生」と呼ばせることは決してなかった。先生、すなわち師匠とは、学会にとって池田氏のみだからである。
こうした学会の会長職を、その実権が目に見えない様子を皮肉って「雇われマダム」と称する人がいるくらいだ。
今、学会では池田氏を「永遠の師匠」とし、その神格化が加速している。元学会員のひとりは、その様子をこう話す。
「まるで戦前の時代、その頃の天皇は、こういう感じなのだろうなと思う」
元学会員によると、学会での会合時、何か意見を通そうとするならば、「池田先生が」と言えば、その場の空気がピリッと変わるという。確かに戦前・戦中に「陛下が」と言えば、軍人が直立不動の姿勢を取っていたといわれており、それを彷彿とさせる。時に「国内国家」といわれ、「創価王国」とも呼ばれる学会内部の空気感が伝わってくるようだ。
創価学会のエリート養成機関、創価大学
その池田氏が創立したのが創価大学だ。1971年に開学した同大は、会員たちの間で「創大」もしくは「S大」の略称で知られる。この創価大や「学園」と呼ばれる東京と大阪にある小学校から高校までの姉妹校出身者は、学会のなかでも一目置かれる存在だ。
会員として真面目に活動している限り、“S大出”は学会の将来の地方幹部要員として遇されるという。全国に約300人程度いるという副会長の地位や、手厚い支持基盤に守られて地方政界への出馬、地方議員の地位も夢ではないそうだ。前出の元学会員は、その実情を次のように語る。
「普通の会員は、名誉会長のことを『池田先生』と呼びます。しかし、創大出や学園出の会員は『創立者』と呼ぶのです」
創価学会の会合時、この「創立者」という言葉を用いる会員がいれば、周囲は「この人は創価大か学園の出身」であることがわかるのだという。学会のなかで創価大卒業生とは、「池田先生が創られた学び舎」で学んだ“池田先生の直弟子”であり、“学会の東大”ともいうべき大学を出たエリートだ。なかには、「池田名誉会長のことを創立者と呼びたいから、創価大へ入学した」という人もいるそうだ。前出の元学会員が続けて語る。
「たとえば、地方の高校や大学を出た幹部を相手に若いS大出身者が『創立者が……』と発言したとして、幹部がその言葉に従わなければ池田先生に盾突くのと同じだと捉える人もいるくらいです。それだけの威厳があります」
このS大出のうち、東京にある創価高校、または大阪にある関西創価高校卒業であれば、会員たちの間では、「純粋培養組のエリート」として一目も二目も置かれるという。小・中学校も東京か関西の創価学園、すなわち「創価の名がつく学び舎」卒業であれば、なおさらだ。
ただ、同じ学園生でも、「関西校」を「東京校」に比べて一段格下にみる人もいるという。それでもS大の学生や卒業生、ひいては学会に籍を置く人たちの間では、地元の高校、それもその地域ではナンバーワンスクールと呼ばれる公立の進学校や有名私学出身者よりも、はるか上の位置づけであることは言うまでもない。
このあたりも、旧陸軍将校と同じく、陸軍幼年学校(現在の高校に相当する軍の学校)から陸軍士官学校(同じく現在の大学に相当する軍の学校)に入学した者がエリートとして遇され、幼年学校を経ず、旧制中学(現在の高校)から士官学校に入学した者は、格下に甘んじ、その後の軍人人生も“外様扱い”され続けたのと似ている。
もっとも、その幼年学校も全国にいくつかあったが、特に「東京陸軍幼年学校」出身者が幅を利かせていたといわれる。同じく令和の時代の創価学会でも、東京の創価学園から創価大を出た者が、内部では「キャリア組」と見なされるようだ。
学会内部でも、創価学会本部職員として採用される者は、法人職員としての立場と学会員としてのそれを併せ持ち、学会員としての役職はほかの学会員と比べ、それこそ旧軍の士官学校卒のエリート青年将校並みにスピード出世を果たすという。
元学会エリートが目指す、理想の「学会像」
そんな学会の青年将校ともいうべき、学会エリート3人組が決起した。『実名告発 創価学会』(金曜日刊)を著した野口裕介、滝川清志、小平秀一の3氏だ。
もっとも、彼らは今、学会本部職員でもなければ学会員でもない。彼らなりに学会を憂い、学会内部で自らと気脈を通じる仲間と結束を強めた――。これが学会では御法度の「組織内組織」と捉えられ、職員としては懲戒解雇、学会員としては除名という、社会人としても、信仰者としても“極刑”ともいうべき刑を言い渡された。
いわば無冠となった元学会エリートは、「安保体制容認は池田氏の意思とは真逆」「幹部や職員の官僚化・権威化」と批判し、もはや「今の学会本部には師匠(池田氏)の精神はない」(同書より)と切って捨てている。
同書から伝わってくる彼らの主張は、「今の学会は、池田名誉会長が目指した学会精神とはかけ離れたもの」であり、「学会の高級幹部が、師匠である池田氏に末端会員の実情を伝えない」ので、学会内部に軋轢が起こる。だから官僚的で権威化著しい学会幹部を排して、池田氏のもとに学会を取り戻そうといったところか。
このあたりも、二・二六事件の青年将校が「君側の奸(君主の側につきながらも、その君主をないがしろにし、君主を思うがままに動かし、悪政を行う者)」とみなした天皇側近の政治家や財界人を自分たちで排除、「天皇による直接政治(親政)」を目指したこととどこか重なって映る。
だが、二・二六事件では、「天皇のために」決起した青年将校たちは、その天皇から「私のもっとも信頼する大臣たちを殺害した」と怒りを買い、反乱分子として処刑された。
旧陸軍は二・二六事件を逆手に取って軍部内の統制をますます強め、本来、政治には関与しない立場の軍部が深く政治にかかわり、その権限と権益を実質的に広げていった。結果的に旧陸軍は“焼け太り”したという声もあるくらいだ。
現代の学会に目を向けると、元学会エリート3人組の決起も早々に“反乱”とみなされ、彼らが愛した学会から除名・懲戒解雇とされた。今や学会員たちの間に彼らの名は「反逆者」として刻まれており、学会内部で口にすることも憚られる存在だという。
二・二六事件の旧陸軍と同じく、令和の時代の創価学会もまた、元学会エリート3人組の反乱を契機に、組織内の不満分子を一掃、かつてないほどに学会内部は結束、この組織力をウリに権力の中枢への食い込みに成功した。
本来、権力に対して一定の距離を置くはずの宗教が、権力の傘に入る――。このあたりも、政治とは一線を画すはずの軍が政権に食い込み、権勢を欲しいままにした旧陸軍の軌跡と奇妙なほど似通っている。
元学会エリートたちから見た創価学会
かつて権勢を誇った旧陸軍も、敗戦により組織は崩壊した。戦時中、そして終戦直後、話すに話せなかった国民の不満が、真偽不明の内容と共に広く伝わってきた。
今、学会は“活動家”と呼ばれる学会員が高齢化し、その後継が育っておらず、もはや組織的崩壊は時間の問題だという指摘も耳にする。
そうした学会内部の状況をビビッドに描いたとされるのが、『創価学会よ、大改革を断行せよ!』(創価学会の明日を考える有志の会著・パレード刊)だ。
同書では、末端の学会員が抱える学会への不満が描かれている。そして、学会に内在する問題点を指摘、その改善策を提言している。
同書にせよ、前出の『実名告発 創価学会』にせよ、そこで描かれている内容が、はたして真実か否か、本当の学会の姿かどうかは、外部にいる私たちにはわからない。
だが、両書を通して、かつて一枚岩といわれた学会内部に異変が起こっていることは窺い知ることができる。
外部からの声で「池田氏の精神」が体現される学会の今
創価学会では「座談会」と呼ばれる会合がしばしば行われる。そこでは池田氏の著作や言葉を通して信仰を深めるべく、会員に向けて幹部が指導を行うのだが、近頃では池田氏に代わって、学会に理解のあるといわれる作家・佐藤優氏の著作や言葉が、しばしば取り上げられるという。
今、学会は3世、4世の時代といわれる。聞き慣れた池田氏の著作や言葉よりも、学会外部の佐藤氏の著作や言葉、その生き様を通した指導は、会員らにとって、「外からの目」を養うことにもつながり、それがかえって信心を深めることにつながっていくという。会員のひとりは、その様子を次のように語る。
「他人を裏切らない――。そんな佐藤氏の生き様は、私たちの師匠、池田先生が戸田先生と共に牢獄まで付き添って権力と戦ったそれと似ています。だから、佐藤氏の著作は、私たちにはとても響くのです」
学会では、2015年の安保法制騒動以降、元学会エリート3人組とそのシンパの排除に成功したといわれる。これにより学会は「一宗教団体」から「政権与党・公明党の創設団体にして最大の支援団体」へと脱皮。会員たちは、“与党の支援団体の構成員”としての責任を自覚、宗教を通して平和を目指すという「池田氏の精神」をより深く自覚し、その実現に向けて行動するようになったという。
こうした流れが学会の中で今、実現しつつあるというのは、なんとも皮肉である。
そんな外からは窺い知れない「池田氏の精神」や学会の実態について描かれているのが、この両書だ。
二・二六事件でも、その是非はさておき、反乱軍とされた青年将校側に立った作品は、今でも面白い。同じく、創価王国のキャリア組だった元学会エリート3人組や、今なお残る学会側からみれば不満分子、彼ら自身は改革派と称する人たちによるインサイドウォッチもまた、ごく一般の世界に生きる私たちが、ビジネスの世界で生き残る上で参考とすべきところ大だ。是非、ご一読あれ。
(文=佐津川剛/宗教ライター)
■二・二六事件―「昭和維新」の思想と行動 (中公新書)新書 – 1994/2/1
高橋 正衛
■実名告発 創価学会 2016/11/15
野口 裕介、滝川 清志、小平 秀一
■創価学会よ、大改革を断行せよ! – 2020/2/4
創価学会の明日を考える有志の会