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森友公文書改ざん問題をめぐる、表現の可能性と報道への違和感【沖田臥竜コラム】

文=沖田臥竜/作家
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森友問題の舞台のひとつとなった学園の校舎

 「週刊文春」(2月3日号)で、森友問題の中で公文書改ざんに関わり、自ら命を断った財務省職員・赤木俊夫氏の遺族にまつわる記事が掲載された。タイトルは「森友遺族が悲嘆するドラマ『新聞記者』の悪質改ざん」。赤木氏もモチーフになっているといわれるNetflixドラマ『新聞記者』が、赤木氏の遺族の意向を無視した形で製作が進められたことを批判している記事だ。

 私は、このドラマのプロデュサーを知っている。ドラマの制作過程もまったく知らないわけではない。だからこそ、この記事の一方的な書き方には違和感を覚えたのだ。

 それに対する私の思いや知る事実は、R-zoneというサイトに寄稿し、各所から反響をもらっているが、ここではあらためて、その違和感をしたためておきたい。

 最初に言うが、これは右や左の問題ではない。それを述べると話がややこしくなるので、ここでは割愛するが、私の知る限り、このドラマのプロデューサーは、できる限り遺族に寄り添おうとしていた。許容できる範囲で遺族の要望を取り入れようとしていた。

 だが仮に、遺族側が作品内容や登場人物の描写に関して、過剰なまでの干渉をしてきたとしたらどうだろうか。ドラマのタイトルを、文藝春秋から刊行されている、遺族と森友問題を追及し続けてきたジャーナリスト・相澤冬樹氏との共著のタイトルに変更してほしいという要望が仮にあったのなら、それを受け入れることができるだろうか。

 もちろん、制作サイドにとっても、遺族の協力は重要だったはずだ。しかしながら、是が非でも必要であったかといえばそうではない。なぜならば、このドラマのベースとなる情報の多くが周知の事実であり、遺族らは本を出版し、遺書まで公開するなど、積極的に情報発信をし、それらは多方面で報道されてきたからだ(最近は、漫画化までされている)。

 そうした状況を受けて、製作サイドが遺族側に仁義を通しつつ、一連の事件をモチーフにしつつも、当事者には生み出せない作り手の意志を反映させて、物語を構築することは許容されるべきではないか。そのような作品は枚挙にいとまがないし、歴史的な名作が生まれることもある。

 そうした中で、制作サイドのこだわりと、遺族側の要望が平行線となっていったことは事実だろう。それゆえ、ある時期から制作サイドは、あくまでドラマはフィクションであるというスタンスに切り替え、自分たちの信念に沿った作品作りを粛々と行っていた。

 こうしたコミュニケーション不全については、ドラマ完成後、『新聞記者』のプロデューサーが遺族側に対して真摯に謝罪している。だが、その謝罪したという事実すら今回、文春でネタにされてしまった。

両者の間にあった埋めがたい「認識の差」

 遺族側と製作サイドに温度差が出るのは当然だ。遺族側にとっては、自ら命を断った赤木氏は権力の犠牲者であり、悲劇の主人公であったのだろう。だが、森友問題から透けて見える、日本を覆う巨大な構造的問題を、ひとつの悲劇にとどめておくわけにはいかないというのが、製作サイドの作品づくりに対するモチベーションだったのではないか。そんな両者の間に、埋めがたい「温度差」「認識の差」が生じるのは必然といえるだろう。

 こうしたギャップは得てして生じるものだし、製作サイドは、世論を敵に回すようなことになっても、自分たちが表現したいことにこだわったわけである。それでも作品内で、赤木さんを不当に愚弄するような表現を用いたわけでもない。それを「悪質改ざん」と断罪する文春は、本当に「作品づくり」というものを理解しているのだろうか。きっとわかってはいるが、あえてスキャンダルに仕立て上げるための表現だったのではないか。

 さらに、文春の記事では、『新聞記者』の原案者でもある、東京新聞の望月衣塑子記者への攻撃もはなはだしかった。望月記者も、遺族側との温度差からか、ドラマ製作や取材から身を引いたであろうことは想像に難くない。一年半前にも、文春は望月記者を「遺族を裏切った」と批判し、今回の記事では、望月記者のお子さんの情報にまで触れた上、その言動をくさしているのである。そこになんらかの正義はあるのだろうか。

 さらに、文春の記事にかぶせるように、望月記者を批判したのが、「日刊SPA!」での相澤氏の記事「ドラマ『新聞記者』で『東京新聞』望月記者を“舞い上がらせた”私たちの責任」である。

 そこで相澤氏は、望月記者に対して、赤木さんの遺族に謝罪するよう呼びかけている。望月記者やその家族を一方的に貶める文春の記事に協力しておきながら、その直後に謝罪要求とは、さすがにたちが悪くはないか。謝罪したい、もしくは話し合いたいという要望ならまだわからなくもないが、自身の非を認識していない望月記者は何に対して謝罪すればよいのだ。

 ちなみに相澤氏は、ドラマ『新聞記者』の中で、「文潮」という雑誌が悪質メディアとして描かれていることに対して、「週刊文春」と「週刊新潮」を揶揄していてけしからんと憤っている。そこには両誌も怒っているというニュアンスが含まれていたが、実際には一部の話だろう。私も両誌には知人が多くいるが、普段、他者を批判し、揶揄している彼らが、ドラマの中でいじられたくらいで、カチンと来るほど度量は狭くないことは実感している。週刊誌記者は図太く、したたかで、今回の相澤氏の記事や文春の早刷りを「いかがなものか」といち早く、私に提供してくれた人たちもいたくらいだ。

 私がここでいちばん言いたいのが、表現すること、作品をつくることを生業とする出版社や書き手が、ドラマ『新聞記者』とその制作サイドを、なぜここまでバッシングしなくてはいけないのかという点である。彼らは、エンタテインメントという枠を超え、森友問題を題材にし、権力の暴走ぶりをあぶり出すようなドラマ作りに取り組んだ。NHKや民放のテレビ局では絶対にできなかった挑戦だ。そこには、200人近くの人たちが集い、不眠不休で働いてきたという事実もある。

 そうした制作に関わった人々の姿や想いは、もっと尊重されてもいいのではないだろうか。

(文=沖田臥竜/作家)

沖田臥竜/作家

沖田臥竜/作家

作家。2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、小説やノンフィクションなど多数の作品を発表。小説『ムショぼけ』(小学館)や小説『インフォーマ』(サイゾー文芸部)はドラマ化もされ話題に。最新刊は『インフォーマ2 ヒット・アンド・アウェイ』(同)。調査やコンサルティングを行う企業の経営者の顔を持つ。

Twitter:@pinlkiai

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