元プロレスラーで元参議院議員のアントニオ猪木(本名=猪木寛至)さんが1日、死去した。79歳だった。“燃える闘魂”の異名を持つ猪木さんの活動はプロレスのみならず、国会議員、タレント、実業家、「PRIDE」をはじめとするさまざまな格闘技イベントのプロデューサーなど多岐に渡っていたが、参議院議員時代には原発推進派から1億円の謝礼を提示され選挙応援を行っていたことが明るみに出るなど、たびたび金をめぐる問題が世間を騒がせてきたことも事実である。
猪木さんの幅広い活動の原点は、やはりプロレスラーとしての活躍だろう。1960年、17歳で日本プロレスに入門した猪木さんは、71年に日本プロレスを除名になったのを機に、新日本プロレスを設立。ライバルのジャイアント馬場も日本プロレスを退団し、72年に全日本プロレスを設立。以降、日本のプロレス界の歴史はこの2つの団体を土台に形成されていくことになる。
「両団体がスタイルの違う要素を持ったことで、嗜好の異なるファンの受け皿が広がり、結果としてプロレスファンの裾野を広げたことは事実。ちなみに袂を分けた2人が、日本プロレス退団後に戦ったことはないが、79年頃に1度だけ馬場と猪木のシングルマッチの話が浮上し、実現直前まで進んでいたことは複数の証言者によって明らかにされている。
よく2人はずっと敵対関係にあったと思われがちだが、いがみ合っていたわけではないし、対面で会えば“兄貴と弟”という関係に戻っていたといわれている。馬場は猪木の5歳年上でBI砲として日本プロレスの看板レスラーだったのと同時に、それこそ寝食を共にしていた。ただ、日本プロレスでは常に猪木は馬場に次ぐナンバー2という位置づけで、団体も何かと馬場を優遇していたため、猪木のほうがずっと馬場に対して複雑な感情を抱いていたという見方もある。
直接対決の話も、完全に猪木のほうから方々に話を仕掛けていたもの。読書家で現実派の馬場とは対照的に、ギラギラとした野心のようなものが常に猪木をかきたて続けていた。それが異種格闘技戦の実現や政界への進出などにつながったのではないか」(スポーツ紙記者/2021年12月2日付当サイト記事より )
そんな猪木さんだが、過去には金銭スキャンダルなどが告発されるなど、金の問題がたびたび世間を騒がせてきた。今回は、13年7月3日付当サイト記事『維新の会より出馬のアントニオ猪木、原発推進派からトンネル会社経由で1億円ギャラ疑惑』を以下に再掲載する。
※以下、肩書・年齢・数字等の表記は掲載当時のまま
――以下、再掲載――
選挙応援や講演会などで「客寄せ」役
「『猪木の元気』の賞味期限が切れないうちに、日本のために何かできたらいい」–元プロレスラーのアントニオ猪木が、夏の参院選で、日本維新の会からの比例代表での立候補を正式表明した。
猪木といえば、かつて1989年の参院選で自ら立ち上げたスポーツ平和党(当時)からの立候補で初当選したものの、95年の参院選で落選している。その任期中、数々のスキャンダルが噴出した。イラクでの日本人人質の解放の際、右翼団体・日本皇民党の幹部が同行していた疑惑。91年2月の東京都知事選では、17億円の借金がチャラになる代わりに出馬断念を決めた疑惑。また、約2億3000万円にも上る所得税などの滞納。「アントニオ猪木の夜のPKO」カンボジア視察旅行での疑惑……こうしたスキャンダルの数々については、本サイト記事『維新の会より出馬、アントニオ猪木の“ダークな”真実…金銭スキャンダルの過去』で明らかにした。