ただ、本連載でも何度も紹介しているように、西洋音楽が本格的に日本に入って来たのは、鎖国が終わった明治維新後です。二度の世界大戦を挟んでいるにもかかわらず、このような大成長を遂げたのは、やはり日本人の勤勉さによるのだと思います。
西洋音楽にまったく馴染みがなかった日本にオーケストラをつくろうとしたのは、実は童謡『赤とんぼ』の作曲家・山田耕作です。そこには幸運がありました。耕作の姉が国際結婚をして日本国内でイギリス人夫と暮らしており、その義兄が音楽家だったことから、国内で本場の初期音楽教育を受けることができたのです。
さらにその後、三菱財閥の岩崎小弥太の援助を受け、明治43年から3年間、ドイツ・ベルリンに留学したことが大きな経験となりました。おそらく当地で、今もなお世界一のオーケストラであるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団や、ベルリン国立歌劇場の公演に強い衝撃を受けたのでしょう。そんな彼は後年、ベルリン・フィルを指揮することになります。
さて、ドイツから帰国した耕作が、岩崎の創設したオーケストラの首席指揮者に就任したのが、日本のオーケストラ夜明けの瞬間です。ただし、このオーケストラはとても短命でした。それは翌年、自身の恋愛問題によりスポンサーの岩崎を激怒させた結果、資金源を断たれて生まれたばかりのオーケストラは解散の憂き目に遭いました。耕作は恋愛には自由奔放だったようで、最初の妻と結婚して間もないというのに、幼馴染の女性と恋に落ちてしまったのです。
ところで、そんな耕作が作曲した『赤とんぼ』は、現在はどのような取り扱いになっているのか定かではありませんが、NHKでは3番の歌詞を放送することが禁止されていると聞いたことがあります。その歌詞は以下のとおりです。
「十五で姐(ねえ)やは嫁にゆき
お里のたよりもたえはてた」
作曲された当時と違い、現在の憲法では15歳は法律で結婚を禁止されているからというのが理由とされています。
多くの苦難を乗り越え、“日本のオーケストラの父”と呼ばれるようになった耕作ですが、その後、東京都内だけでも9団体、日本全国で40団体近いオーケストラが生まれるとは想像もつかなかったでしょう。さらに、1000団体を超えるアマチュアオーケストラが活動する大オーケストラ国に日本が成長したと知ったら、どれほど驚かれたことでしょう。
(文=篠崎靖男/指揮者)