中野区新井はもともと新井村。その後、野方村大字新井となり、1924年に野方町、1932年に中野町と合併して中野区となった。1927年には高田馬場から東村山を結ぶ鉄道の村山線(現在の西武新宿線)が開通し、新井薬師に参拝する人も増え、地価が2倍に上昇したという。
また、時代はさかのぼるが、1910年には市ヶ谷から監獄が移転してきた。豊多摩刑務所である。刑務所の前には「放免茶屋」と呼ばれる茶屋ができて、出所した人が風呂に入ってから、迎えに来た家族と一杯酒を飲む場所になっていたというから面白い。
見つかった料亭の名残
三業地ができたのは1925年である。もともと新井薬師近くには「萬屋」「角屋」「山口家」「辰美野」という料亭があったが、その料亭の主人たちが三業地指定の請願活動を行った。萬屋や辰美野は窪寺という一族が経営していたが、その一族に新井町の収入役がいたこともあり、請願が認められ三業地ができたらしい。
こうして1929年頃には待合の数は23軒、置屋は40軒、料亭は11軒となった。花街周辺には、寿司屋、うなぎ屋、洋食屋、カフェなどが集まり、にぎやかになっていった。また、あいロードの早稲田通りに出る手前には「昭和亭」という、1階は商店で、2階が大衆演劇の寄席になっている施設もできたという。
昭和40年代の地図を片手に現地に行ってみる。地図だとまだかなり料亭が残っており「つたや」などの店名が見られる。その料亭のある場所に行ってみると、料亭はもうなく、料亭の周りにあったらしい小料理屋も廃屋になっている。
ただし元料亭らしい木造の建物は少しだけ残っており、色気のある雰囲気を漂わせている。「つたや」があったはずの場所はマンションになっているが、そのマンションの名前が「アイビーマンション」だった! アイビーは英語で「つた」である。
街歩きをして、その街の過去を知りたいときは、こういうふうに、マンションやビルの名前を詳しく見ないといけない。よく見れば必ず何かが見つかるのだ。
参考文献
中野区教育委員会『新井・上高田』1999年
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)